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タイトル ライブラリアン・ラプソディ

51 かえでcafeの店員より

 『今日は死ぬのにもってこいの日』(ナンシー・ウッド著, 金関寿夫訳 めるくまーる, 1995)を読んだのはもう20年以上もまえ。ネイティブ・アメリカン、プエブロ族の生きる哲学を詩と散文でまとめたもの、シンプルだけど忘れられない言葉が散りばめられた一冊である。

「宇宙の流れの中で、自分の位置を知っている者は、死を少しも恐れない。 堂々とした人生、そして祝祭のような死。」

上記は中沢新一による帯の文言、「祝祭のような死?どう生きればここに行きつく??」と、自身の人生観をはるかに超えるアイディアに圧倒されたのを覚えている。まぁ、自身の人生観というものがそれに相当するものかさえもあやしいのだけれど。

 友人のお寺では、最近自然葬墓苑を開苑、自然葬のなかでも樹木葬と呼ばれるスタイルのもの。シンボルツリーであるカエデの木と墓苑の中央には祈りの象徴であるブルーグリーンの鐘が配置され、苑内にはベンチもあるため、吹き抜ける爽やかな風を感じながら故人を偲ぶことができ、もしかしたらピクニック気分⁉で訪れることができるかも。サンドイッチをもってお墓参りへなんて気持ちにさせてくれる。「お墓に人魂が⁉」なんてオカルト的現象もここでは鳴りをひそめるに違いないのである。

挿絵1
※挿絵はクリックで拡大します。

 2005年刊行の『民俗小事典 死と葬送』(新谷尚紀、関沢まゆみ編 吉川弘文館)によると、「自然葬」とは、「墓へのこだわりを捨て、遺体を自然へ返そうとする葬法」とまず書かれている。家族と家のありかたの変化や都市部の墓地不足を反映して、1980年代から葬送の自由を求める動きが起こった。1991年2月に市民団体「葬送の自由をすすめる会」(現在NPO法人)が発足し、その設立にあたって初めて「自然葬」という語を使用したとのこと。事象に名前を付けることのインパクトとその後の社会認知度のスピードは、ネーミングの有無が関係しているように思う。そして、「自然葬」という言葉は、この4年後の1995年には『大辞林』(第二版)に見出し語として収録され、98年刊行の『広辞苑』第五版にも採用された。
 さて、「〈墓〉からの自由」を掲げた「葬送の自由をすすめる会」は、1991年10月相模湾の沖合でクルーザーからの散骨を行った。これに対して当時法務省は、それが節度をもって行われるかぎり、刑法の死体遺棄罪や墓埋法(「墓地、埋葬等に関する法律」)の墓地以外に該当しないとして追認、散骨に対するメディアや一般社会の関心は一挙に高まったのである。散骨が「埋める」ことを想定した墓埋法の範疇外であるとして「法の外」で行われたものである。

 これらの事例は、そもそも火葬が前提となっており、現在火葬がほぼ100%という火葬大国日本だが、火葬が主流になるのは昭和に入ってからのこと。火葬率が50%を超えるのは1935(昭和10)年でそれまでは土葬が主流。そして、土葬であっても火葬であっても、墓石を立てるようになるのは江戸時代中期以降のことらしく、江戸時代の庶民には「家」意識が乏しかったこと、土葬が主流だったことなどが関係して、大半の墓は個人や夫婦のものであって、現在のような‘○○家の墓’というものではなかったと『〈ひとり死〉時代のお葬式とお墓』(小谷みどり著、岩波新書 2017)には書かれている。個別化が進み、それに伴い自然葬というアイディアが生まれたかのようにも思えるが、実は前例があったという事実、やはり歴史から学ぶことは多いのよね。

 明治から昭和期にかけて活躍したジャーナリスト宮武外骨(1867-1955)の遺言には、「死體買取人を求む」と、自認稀代のスネモノは、墓を建てられるのは主張に反するし、灰にして棄てられるのも惜しい気がすると、こんなことを書いた。びっくり仰天!
 ‘祝祭のような埋葬法’ってなにかしら?と、かえでcafe(友人のお寺の自然葬墓苑の説明会時に併設されるカフェ)の店員(私)は思うのである。

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