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タイトル Hidden Library,Invisible Librarian

10. 窓

「失礼しまー…あ…す、す、すいません…」

司書は、初めてこのエリアを訪れました。そして、他のエリアにお邪魔する時と同じように、明るく大きな声で挨拶をしながら入室しましたが、もっと静かに入ればよかったと、すぐに反省しました。

ここは、外来化学療法室。

外来化学療法室とは、患者さんが自宅などで日常生活を過ごしながら、通院して薬物治療(化学療法)を受けられるように設置されたエリアです。抗がん剤の治療を受ける方が多いですが、自己免疫疾患など、がん以外の薬物療法を受ける患者さんもいます。

この病院の外来化学療法室は、高層階に設けられています。

車椅子でも移動しやすいよう椅子の間隔を広く空けた待合室を抜け、治療を行うエリアに入ると、さらに広い空間にリクライニングチェアやベッドがゆったりと配置されています。

治療中の患者さんが顔を向ける方角には、大きな窓。

今はちょうど、田植えの時期。

水を湛えた田んぼはきらきらと光り、畦道を歩く人や、ローカル線を時折走る一両編成の電車の姿を、鏡のように映しています。

田んぼの先に目をやると、山脈が、うっすらと。

(きれい…通い慣れた道なのに違って見える)

「あら、司書さん。もう来てくれたのね」

穏やかなトーンで声をかけてくれたのは、”がん薬物療法認定看護師” のOさんです。

Oさんとは普段、図書館や院内のレターボックス、Emailでやりとりをしています。今日は、できるだけ早く読みたいと希望していた文献が予想以上に早く入手できたので、あらかじめ許可を得た上で、勤務中のOさんに直接届けることにしたのです。

“認定看護師” とは、特定の分野の看護を遂行できる専門職として認められた看護師に与えられる資格です。認定看護師の審査に通るには、実務経験と共に、専門教育を受けること、学会発表や論文執筆などの学術活動を行うことが必要です。1)

認定看護師の資格は、永続的なものではありません。資格更新のため、なにより、目の前の患者さんのために、認定看護師は、認定看護師であるかぎり、自己研鑽を続けていくことになります。

司書がこの病院に勤め始めた頃、Oさんはまだ認定看護師ではありませんでした。Oさんは、その当時の該当資格であった “がん化学療法認定看護師” になるため、休み時間や勤務後に図書館をよく利用していました。司書が出勤したばかりの朝、夜勤明けで私服に着替えたOさんが現れ、文献を受け取ってすぐ帰る、ということもありました。

その後、Oさんは “がん化学療法認定看護師” の審査に通り、2019年からの制度改正2)の手続も完了し、2021年から ”がん薬物療法認定看護師” として、そして、外来化学療法室の師長として、この病院のがん看護を支えています。

司書は、文献の入った封筒をOさんに差し出しました。

「こちら、ご依頼の文献です。あと、ちょうど関連書籍のチラシを入手したので、一緒にお持ちしました。必要であれば、図書館で発注しますので、ご連絡ください」
「ありがとう、助かるわ」
「いえ…先ほどは失礼しました」
「え、何が?」
「大きな声を出してしまって…」
「大丈夫、ちょうど誰もいなかったし」

Oさんは司書に、優しく微笑みました。
司書も笑顔で応え、外来化学療法室を後にしました。

(そういえば、夜勤明けで現れた時も、Oさんは笑顔で文献を受け取ってくれたなあ)

司書は、図書館に戻りながら、大きな窓に広がる美しい景色を思い出していました。

(患者さんは、どんな気持ちで窓を見ているのだろう)

司書は図書館に戻ると、普段は資料の日焼け防止で閉じているブラインドにそっと指を入れ、窓の外を少しだけ覗いてみました。

田んぼの水面には、夕焼け空が映っていました。

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