静かな館内に、突然、ガタッという音が響きました。
同時に、司書の前に白いものが飛び込んできました。
司書は、数メートル先に目を向けました。
(あらら…どうしよう…)
考えあぐねている司書の視線の先には、三人の研修医。
睨み合う二人と、二人を呆然と見つめる一人。
彼らの足元に転がる、一本のペン。
白いものは、消しゴムでした。
司書は、彼らが小声で言い争っていたことには気づいていました。研修や診療に関する真摯な話し合いが、断片的ではありますが聞こえていたからです。彼らしか館内にいなかったこともあり、聞こえてはいるけれど聞いてはいませんという姿勢で、視線を逸らしながら、そっと成り行きを見守っていたのでした。
そして、この状況。
座っていたはずの彼らが立っていること、先ほどまで言い争っていた二人でない組み合わせで睨み合っているということは、話を聴いていて感情を抑えきれなくなった一人が割って入ったのではないかと、司書は推察しました。おそらく、立ち上がった時の勢いで近くにあったものが落ちたり飛んだりし、そのうちのひとつが、今、司書が手にしている白い消しゴムなのでしょう。
この年は、6名が初期研修医として着任しました。
司書が病院で働き始めた年は、2名でした。
毎年、病院の規模拡大と共に、増えています。
臨床研修を行う病院は、「研究、研修に必要な施設、図書、雑誌の整備及び病歴管理等が十分に行われていること、かつ、研究、研修活動が活発に行われている」1) という基準を満たしているので、おおむね図書館が設置されています。
研修医と一口に言っても、さまざまな人が集まります。
医師になると決めた背景も、図書館や司書の活用法も、さまざまです。
着任したその日に、電子ジャーナルのリモートアクセス申請で来館してくれた、H先生。
出典の記し方や論文中の図表をスライドに直接ダウンロードする方法を案内して以来、何かと頼ってくれる、B先生。
将来はシステマティックレビューをやってみたいので、論文データベースをもっと使いこなせるようになりたいと、休憩時間のすべてを費やして質問してくれたことのある、D先生。
いつも物静かであまり話したことはないけれど、Email経由で頻繁に文献の入手依頼が届くので、実際にはどの研修医よりも多くのやりとりをしている、F先生。
指導医に言われて来たけど何を手伝ってくれるんですか?と直球の質問をしてくれた、E先生。
休憩時間はだいたい図書館で熟睡している、A先生。
研修期間中、一度も図書館を使わない方もいます。
目の前の三人は、ようやく落ち着いたようです。
お互いに、すまなかったと謝罪しあっています。
司書は消しゴムを手に、彼らに歩み寄りました。
「あの、これ、どなたかのだと思うのですが」
「…ああ、僕のです。ありがとうございます」
消しゴムを受け取ってくれたのは、F先生でした。
三人は次の予定に向け、荷物を片づけ始めました。
(いつもは物静かなF先生があんなになるなんて余程の事だったのかな)
図書館を出ようとする彼らの背中を見つめながら司書がぼんやり考えていると、ドアの前で突然、F先生が司書の方を向きました。
「ご迷惑をおかけしました。感情のコントロール、ちゃんとしないといけませんね」
自分が思っていたことを見透かされたのかと動揺する司書に対し、F先生は普段どおりの微笑みを返して、図書館を後にしました。
それから随分の年月を経た、ある春の日。
司書が選書のため医学書の出版案内を開くと、F先生の名前が目に飛び込んできました。
(F先生だ!懐かしいなあ…)
出版社のサイトにアクセスし著者紹介のページを見たところ、F先生は現在、精神科専門医として大学病院で臨床の仕事を続けながら、一般に向けた心の整え方についての本を執筆しているとありました。
(これは個人的に購入することにしよう)
司書は、消しゴムの一件を思い出しながら、いきなり飛び込んでくるものはできれば嬉しくなるようなものがいいなとも思いました。
そして、F先生の著作のページに栞を挟み、図書館のための選書を続けました。
今年の初期研修医は、8名です。
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