こんにちは。
さっそくですが、オーデンの「見る前に跳べ」、タイトルは聞いたことがある、という程度だったので、今回、初めて全文を読んでみました。繰り返される「あなたは跳ばなければならない」が読み手に迫ってくるROCKな詩だな、と思います。
なぜ「跳んだほうがいいよ」「跳ぶと楽しいよ」ではなく「跳ばなければならない」なのかというと「跳ばないと生きていけないから」または「跳ばない生は生に値しないから」ということなのでは、と思いました。なかなか厳しいですね。
連想したのはマルクスの「命がけの跳躍」という言葉というか概念というかです。思いきり簡単に、そして意訳して言っちゃうと「モノに価値があるかどうかは自分ではなく相手が決める」ということですかね。自分がいくらおもしろい文章を書いたと思っても、読む相手がおもしろいと思わなければ、その文章に価値はない。なかなか厳しいですね。今回の手紙は「なかなか厳しい手紙」としたほうがよかったかな。
昔、まだ電子メール(!)なるものが存在していなかったか、少なくとも一般的ではなかった時代に、少し離れたところに住む友人と手紙のやりとりをしていたことがあります。特に用事があるわけでもなく、そのときどきに考えたことなどを書いて送ったり、相手からの手紙を読んでまた考えたり、そんな感じでした。今思えば、このときに書いてみたことやもらった感想などが、現在の自分の書くことや、もしかしたら「文体」みたいなものをつくったのかもしれません。
それで一度「これはなかなかおもしろいことが書けたぞ」ということがあって、それを送ったんですが、返事が来ない。もちろん「いついつまでに感想を書いて送ること」などという約束事があったわけはないですから、返事が来なくても不思議ではないし、相手を責めるわけにもいかない。しかし自分の中に「せっかくおもしろいことが書けたと思ったのにな…」というわだかまりができてしまった。
そして暫く返事が来ることのないまま、その友人とひさしぶりに会うことになったんです。手紙について触れないのも不自然かな、と思い、それでもわだかまりは一応隠しながら、さりげなく「そう言えばここのところ、手紙のやりとりをしてないね」と言ってみたんです。すると返ってきたのは「前回もらった手紙が凄すぎた。凄すぎてあれは返事を書けなかったよ。すまん」という言葉でした。
ははあ、おれの手紙、凄すぎたかあ。まあそういうことにしておこう。それ以来、手紙の返事がないような事態(またはそれに類するようなこと)に遭遇すると「ははあ、これはちょっと凄すぎるやつを書いちゃったかな(笑)」と思うことにしています。大人になるというのは精神のバランスをとるための小技のバリエーションを増やすことになるエピソードを積み重ねるということなのかもしれませんね。
まあそれはそうと、そんなことがあった頃、ちょうど「命がけの跳躍」に関する本を読んでいたので、文章を書くというのは(人に見せても見せなくても)まさに「命がけの跳躍」だなあ、と思ったし、今でもそう思いますね。
そしてなぜ文章を書くのか、につながるんですが、私の場合は「考えるために必要だから」というのがいちばん大きいようです。自分の中に生まれたり、そこをよぎったり、鎮座したりしているものを表すためにふさわしいような言葉を、自分の在庫の中で探したり、その組み合わせを試したり、順番を入れ替えたり、そういうのが私の「考える」なんですけど、それって「文章を書く」のとほとんど同じなんですよね。
そしてその文章を読むのは自分だけでなく、自分のなかの他者だったり、リアルに存在する他者だったりするわけです。だから「命がけの跳躍」をせざるを得ない。そうしないと「考えられない=生きていけない」んです。それを誰かにどう伝えるかというのは次の段階の話、ということになります。
あれまあ、なんだか「ソレワソレワ」な感じが強まってきました。ちょっと話を逸らして、1冊紹介しましょう。リチャード・ドーキンス著『ドーキンスが語る飛翔全史』(早川書房 2023)。美しいイラストとともに描かれる、さまざまな生物や、飛行船、宇宙飛行士などの飛翔は、「飛ぶ」「翔ぶ(80年代風の読み方です)」ことについてのアイデアのバリエーションを広げてくれます。目次と索引を眺めているだけでも楽しくなる本です。こんな本なら「跳ぶ(飛ぶ、翔ぶ)前に読め」と言われてもいいかなあ、と。
「見る前に跳べ」に戻りました。そうそう「見る前に跳べ」自体、「跳ぶ前に見よ」ということわざから来ているものだそうですね。「書く前に読め」と言われると窮屈な感じはしますが、かといって「読む前に書け」と言われて、実際に書けるのかというと、それはおそろしい。 おそろしいけれども、読んでいようがいまが、書かなければならないときはあります。そのときにそなえて、せいぜい読んでおくようにしたいと思います。
と、今回はここで終わりにしようと思ったんですが、思いついたので追記しちゃいましょう。今回出てきた「跳躍」「飛翔」に似た感じの言葉で「飛躍」というものがあります。たいていはいい意味で使われますけど「論理」(とそれに類するもの)との相性はよくないみたいで「論理の飛躍」は避けるべきものということになっています。しかし「飛躍の論理」だとそうでもないような。また「論理の跳躍」は試みてもいいような気がしますし「論理の飛翔」もちょっと見てみたい気がする。言葉っておもしろいな。こういうのに出会うことがあるので「書く」のは楽しいし「考える」のも「生きる」のもそうだ、と思いながら書いています。書くことについて書くと、長くなりがちです。(大)
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