
こんにちは。
「有朋自遠方来、不亦楽乎」なんて言葉があります。返り点を入れて髙橋さんに衝撃を与えたいところですが、もはや衝撃を受けてくれることもないだろうと想像して、白文でお届けします(まあ、ちょっとめんどくさいだけなんですけど)。
で、この言葉には私も同意するところなんですけど、それはそうと「朋友に遠くまで会いに行く」楽しさを表現する言葉もあってもいいんじゃないかな、と最近思ったりしています。漢文で表現したいところですが、以下略。
前回いただいた手紙、いしいしんじで始まって、中原中也で終わっていましたね。読み終えたときに「あ、ぶらんこからぶらんこ!」と思ったんですが、言及されていたいしいしんじの作品は『ぶらんこ乗り』ではなく『プラネタリウムのふたご』でした。この「何かに気づいた!」という喜びの後に、それが勘違いであったことを知るという思考の動きが我ながらおもしろくて、まさかこれも髙橋さんの計算のうちだったのか?と勘ぐってしまいました。果たして真意は如何に(答えなくていいですよ)。
手紙の中に本の話が出てくるのはおもしろいですね。それも具体的な説明とかなく、なぜその話をしているのかわからないと、さらにおもしろい。もともと劇中劇とか作中作とか入れ子構造とかが好きなので、そういったものに通じる何かを感じるのでしょう。手紙は必ずしもフィクションとは言えませんが、その中にフィクション要素が入っていると、物語的な深みが増すということはありそうです。そして説明がないと、こちらは勝手に深読みができる。この本の、この作品の、どういうところを、どういう意味で引用したり、言及したりしているのだろう?と考えると楽しくて、遠くまで会いに行きたくなったりします。また楽しからずや。
そう思えば、手紙の中に手紙を忍び込ませたり、引用したりしてもいいかもしれませんね。「レター・イン・レター」とでも言いましょうか。いやもちろん要求しているわけではありませんので、お気になさらず。ええ「絶対押すなよ」って上島竜兵さんも言ってましたし。
そうそう『プラネタリウムのふたご』を読み返した、という話でした。それを聞いて思ったのは、好きな本の中でも、繰り返し読みたくなる本と、一度しか読まない本がある、ということでした。読み返さないからと言って好きじゃないわけではない。一度の読書体験をそのままそっとしておきたい、そんなふうに思わせる本もある、ということです。
あまり手の内を晒すのも恥ずかしいので簡単に言うと「ドストエフスキーは読み返さない、カフカは読み返す」というあたりですね(じゅうぶん恥ずかしくなってきました)。内容を覚えているか覚えていないかとかは関係ない。長さも関係ないですね。理由は今のところわかりません。謎としておきましょう。
そんな「好きだけど読み返さない本」の自分の中での代表的な一冊であった、ある小説を最近読み返し始めました。友人がさかんに言及するので、ひさしぶりに読んでみようと思ったのです。なんと41年ぶり。最初に読んだ時を正確に覚えているのは、その本のタイトルが「読んだ年」だったからです。まわりくどいですね、ジョージ・オーウェル『1984年』です。1984年だったので『1984年』を読んだ、ということですね。
これは高校生には衝撃的だったです。今になれば「意味がわかっていたか」どうか、心許ないですが、とにかくドキドキした記憶があります。ストーリーも忘れられない。で、その後、いろいろな場面で言及されるし、様々な解釈や論考も目にする機会が多く「一度読んだし、覚えているし、その存在意義もわかっているし、読み返す必要を感じない」という気になっていたんです。
こういう(どういう?)作品は、折に触れて「今こそ読み返すべき」という言い方をされて、それもわかるんですけど、どうも乗らない。読めばおもしろいに決まってるし、新しい発見があるはずだし、読んで損はないというか、いいことばっかりなのはわかっているのに読み返せない。
そんなときに「おして」くれるのはやっぱり人なんですよね。朋あり、遠方に会いに行きたし。
これで終わろうかな、と思ったんですけど「不合理ゆえに吾…」と言われると、やはりこれも付け加えざるを得ない。『不合理ゆえに吾信ず』をめくっていたら、巻末に谷川雁の「作者への手紙」と埴谷雄高の「遠くからの返事」が載っていることに気がつきました。なーんだ、「絶対押すなよ」と言わなくても、前回の手紙はもともと「レター・イン・レター」だったんですね。(大)
今回はブックス・イン・レターが多かったので、まとめておきましょう。
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