365進法(大体)で、また一つカウントがあがりました。数直線にすると過去から未来へ途切れない一直線ですが、仕切り直しが入るのも「去年の今頃」みたいな比較がしやすくて良いのかもしれません。また一年、よろしくお願いします。二月礼者、万歳。
「愛でたい」は良いですね!東北の方言で、「めんこい」というものがあります。主に子どもに使って「かわいい」とか「愛おしい」のような意味なのですが、「めんごい」「めごい」など東北の中でも地域によって若干読み方が変わったりもします。古くは万葉集の山上憶良の歌の書き下しに登場する「愛し(めぐし)」を語源とするらしく。「かわいい」という言葉を口から出すのに照れてしまいがちな私は、結構な頻度でこの「めんこい」を使います。現場では頭にクッションをつけて、「あら、めんこい」が使いやすくてオススメです。
山上憶良さんといえば『貧窮問答歌』。古代の人々の貧しい暮らしぶりが垣間見える長歌ですね。私は頭の引き出しにしまってある記憶がランダムに組み合わされてしまうというやっかいなパッシブスキルを持っているのですが、貧しさの歌を思い浮かべると「ぢっと手を見る」もほわほわっと浮かんできてしまいます。筑前守と夭折の詩人がマッシュアップ。受験生時代、重点的に勉強した旧センター試験日本史は100点満点中、21点でした。
正しくは石川啄木『一握の砂』より「はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る」の一首なわけですが、書いていてちょっと疑問がわきました。ぢっと見た手は片手だったのか両手だったのか。私の解釈&想像だと片手(右手)なのですが、どうでしょう。両手だとするとちょっと改まった絶望感が強く感じられて、より「ふと」感を感じられるのは片手かなあ…と。
片手、両手といえば、以前いただいた「公案と転びの手紙」のお返事(手紙№6、7)でも考えたテーマでした。あのときは、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』をもじって小話を書いた気がします。
心のままに話は脱線するのですが、福島県に飯舘村という村があって(南相馬市のお隣さんです)、村のキャッチコピー(?)として、「までい」という言葉があります。「手間隙を惜しまず」「丁寧に」「心をこめて」「時間をかけて」「じっくりと」みたいな意味らしいのですが、これの語源が「真手(まて)」という古語からきていて、「両手」「左右揃った手」という意味だそう。片手間でなく、両手で丁寧にやろうねー的な感じが「までい」という言葉が表しているものなのでしょう。
ちょうどこの手紙を書いている日の日中、仕事で飯舘村にいってきたので(月一回の移動図書館です)、大林さんのお手紙を読んで、「愛でたい」と「までい」のニュアンスが何となく似ているなーと思ってしまい、ぐるっと散歩してみたのでした。みたのでしたー!
ちなみに、お隣さんなのですが南相馬市は雪が少なくて、飯舘村はたくさん雪がふります。豆知識。
年末に財布を無くしたのですが探して探して見つからなくて、途方に暮れているときにふと蕎麦を食べながら「あ、あのカバンの中!」と、いわゆるアハ体験を経験しました。無事見つかったことよりも記憶の引き出しが闇鍋状態のはずの自分が急に思い出せたことが大事件でした。
「できなかったことができるようになった」なのか「まだできた」なのかはわかりませんが、素直に嬉しかったのが正直なところ。50歳になっても60歳になっても成長を実感できる生活を送るためのヒントになった気がしています。『アルジャーノンに花束を』よろしく、時間を重ねながら死に一直線に向かっていくのもそれはそれで良いと思いますが、きっかけを見つけて仕切り直しをしながら、自分の変化を好ましいように求めてみるというのも前向きでいいのかなあなんて思いました。てへ。(高)
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