
こんにちは。髙橋さんの1行目はいつも格調高めで唸らされます。手紙をもらったな、という感じがする。翻って自分はというと、技がないなという気がしています。まあそれもいいか。
私の『新明解』も4版で、奥付を見たら三七刷ということでした。発行日からすると、私の人生(笑)の約半分を見守ったり、引っ張ったり押したりしてくれたもののようです。そんな「新解さん」で「最終回」を引いてみた、というか「最終回」ってなんだっけ?と聞いてみたんです。そうしたらそれは見出しにも小見出しにもなくて、ああ、まあそういうことか、そんな感じか、と。
好きな言葉というか概念に「アンチクライマックス」というのがあって、そういう場面に出くわすと嬉しくなってしまいます。フィクションの中でもそうですし、現実の世界でも同様です。小説で思い出すのは村上龍の『だいじょうぶマイ・フレンド』(集英社 1983)とか好きだったな。あとは高橋源一郎の初期のものはどれもアンチクライマックスがよかった。
風船をふくらませていって、そろそろ限界だなというところにきて、破裂するでもなく、手を放してしまって風船が飛んでいってしまうとかでもなく。いくら息を吹き込んでもふくらまなくなってしまうとか、突然風船が消えてしまうとか、そんな感じですかね。
現実で言うと、つくろうとしていた図書館が(以下略)
さて気を取り直して(笑)。髙橋さんはこの私書箱を振り返って「図書館よりも本、読書(本にまつわる体験)のことが多かった」と書かれていました。ご自分を評して「図書館員である前に、本を抱えている男」とも。私もそうですので、松岡享子さん流に言えば「わたしたちは、本はよいものであると信じる人々の集団に属しています」『子どもと本』(岩波新書 2015)、というところでしょうか。と書いて、そのフレーズをインターネット検索したんですが、なんと髙橋さんの手紙(第9回)がヒットして、ちょっと笑えました。
図書館員である前に…。図書館員にもいろいろな人がいて、よく聞くのが「図書館よりも書店が好き」という言葉ですね。それもいいし、わからないでもないし、「本好き」はそっちかも、とも思うんですが、この私書箱に手紙を投げ入れているうちに、私は意外と、というか自分でぼんやり想像していたよりも「図書館が好き」ということがわかってきたような気がします。気を取り直したわりに、恥ずかしくなってきました(笑)。
自分の好きな本、読んだ本、読みたい本が置かれた自分の本棚や、書店さんの哲学が表れたような棚を好きなのはもちろんですが、それとは違った意味で、図書館の棚はいい、図書館の棚がいい。
自分では好んで読まない本、一生手に取らないであろう本、なんなら視界に入れたくないような本(そういうのばっかりでは困りますが)、そういうのが入り混じった棚が、その棚が置かれている空間がいい、というような感覚です。
なんだか、検索したら自分の手紙がヒットしそうなことを言いそうになっています。手紙をウェブ空間、サイバー空間、ネット空間、電脳空間、なんでもいいんですが、そんなところに置いておくのは奇妙なものですね。あ、自分が瓶に入れたメッセージを拾ってしまうというのはこういう感覚なのか。なんとなく回収にかかっていますね、いかんいかん。
虚空に向かって何かを投げかけるという感覚は嫌いではないですね。何か反応がなくても当たり前だし、誰かが気がついてくれれば嬉しい。しかし反面、そんなことを言っていてはどこにも届かないのでは?もっと必死に届けようとしなければいけないのでは?と思ったりもします。
そんなことを考えながら生きていくんだろうなあ。もう少し図書館の話をしてもよかったかなあ。アンチクライマックスって(大)
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