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タイトル 司書の私書箱

No.40「ニワトリとタマゴと時間の手紙」

挿絵
※挿絵はクリックで拡大します。

 こんにちは、と書き出して、そう言えばこちらは「こんにちは」な時間帯にこれを書いている(ことが多い)のでこうなっているんだけど、読む側はどうなんだろうな、と今さらながら思ってしまいました。手紙というものがもっているいろいろなタイムラグのこと、意外と考えていなかったな。
 そう、私は「こんにちは」時間帯に書いています。以前の手紙を読み返しても、これは昼間に書いているな、という気がします。書く時間帯によって「文体」も変わってくるかもしれません。読み手としてはどうなのか。昼間に書かれたものを深夜に読んだり、深夜に書かれたものを早朝に読んだりするのは、書かれたのと同じ時間帯に読むのに比べて、その理解とか受容において、何か影響が出たりするものなのだろうか。

 答は出ないまま続けていきます。 「書く」と「読む」の順番の話ですが、これは「ニワトリとタマゴ」だよな、と思ったのです。この場合「ぐるぐる回っていて、どっちが先かわからない」という意味のたとえとしての「ニワトリとタマゴ」です。
 しかしこの「ニワトリとタマゴ」、どのパースペクティブから見るかによって「わからない」どころか、決着はつけられる、ついている、ということもできそうです。遺伝学とか生化学とかの観点ではそれぞれ結論が出ているようです。宗教とか哲学とかでも答えがあるのでしょう。それについては私が何か言っても仕方がないのかな。ちょっとネット検索をすれば概要も諸説も出てくるし、そこから掘り下げるための資料もたくさんあるはずです。
 ちょっとおもしろいと思ったのはWikipediaの「鶏が先か、卵が先か」という項目の中で、仏教の循環的時間とニーチェの永劫回帰を結びつけ、「何者も最初たりえない。循環する時間において、「最初」は存在しない」という「答え」を提示しているところです。私の中ではこれがしっくりくる感じだったんだけど、こういうのは「科学の否定」になるのだろうか、と思ったり。
 また、イエラ・マリとエンゾ・マリの美しい絵本『にわとりとたまご』(ほるぷ出版 2015)は、そのタイトル通りのストーリーですが、ニワトリの場面から始まっています。これはこれで説得力があります。

 もうひとつ、昔読んだものを思い出したんですけど、出典がはっきりしない。こういうときに思うのは「自分が読んだものが全文データベース化されてたらなあ」ということです。それはそうと、こんなやつです。
 ーーニワトリが先か、タマゴが先か。ついにこの問題に決着をつけるときがきた。まずはしっかりと目を閉じる。無心で箸をどんぶりに突っこみ、最初にさわった部分を持ち上げ、口に運ぶ…。ーー
 三つ葉か、ネギかタマネギ、白飯という可能性もありますけどね。髙橋さんの好きな親子丼には何が入っているのでしょうか。 

 どうでもいい脱線でした。「書く」「読む」の順番に戻りますね。これも、どのパースペクティブからか、という問題ですね。私の個人史的な観点からすれば「読む」が先に来ますね。読むものがあった、読んでみたらおもしろかった、おもしろいものを自分でもつくってみたくなった。この順番です。前回言っていた「考えるために書く」のも、読むことが先にあって、ということだと思います。
 たいていはそういうものかな、と考えがちなんですが、そうとばかりも言えないのかもしれません。「小説を書きたい人は増えているが、小説を読む人は減っている」なんて話はよく聞きます。これはレトリックとしておもしろいのでそう語られるのかもしれないし、本当のところはよくわかりませんが、そういう流れはなんとなくありそうです。
 また、ものづくりを試みる人が「自分のオリジナリティを損ないたくない、影響を受けたくないので先行者の作品に触れないようにしている」というのを聞くこともあります。これは私からすると、なかなかいい度胸だ、と思えますね。先行する、というか存在する文章を読めば読むほど「自分のオリジナリティの意味のなさ」を実感しますから。
 これだけ膨大で絢爛たる世界の中に、自分が何か加えることに意味などあるだろうか、ないですよね。それでも何かしらを加えようとするんです。そこがおもしろい。
 こういうのを考えるとボルヘスの「バベルの図書館」(『伝奇集』(岩波文庫 1993)所収)を思い出します。「あらゆる言語で表現可能なもののいっさい」を所蔵している図書館ですから、この私たちの手紙も、これから髙橋さんがお書きになる本も、すでにそこにあるんですよね。そんななか、私たちは世界に何かを加えようと(まあいわば)必死になっている。何たることか。

 個人史を離れて、世界史というか人類史というか、また「読む」「書く」の順番の話に戻ります。最初に何かを「読んだ」存在があるとして、そのとき「書いた」ものがあったことを考えると、これは「書く」が先にあったと考えられます。「読む」を知らなかった人(?)が「書く」を始めるってどういうことなんだろう。これは想像を絶しますね。『2001年宇宙の旅』(スタンリー・キューブリック監督 1968)のモノリスを想起しますが、超越的な存在について話すのはこれまた難しいので、この話はまずはここまでとしておきましょう。

  大貫妙子さんの「メトロポリタン美術館」、私も「懐かしいな」と思い、「年代ホイホイ」?と引っかかったんですが、調べてみると初放送時、髙橋さんは生まれていなかったみたいですね。私は高校生でした。その後何度も再放送を繰り返し、幅広い世代に「懐かしい」と感じさせるものになったのでしょう。歌詞の内容ともリンクして「循環的時間」を表現する歌だと思えます。これも「循環する時間において、「最初」は存在しない」という例なのかもしれません。(大)

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