あけまして…、とご挨拶すべきところなんですが、喪中です。「今年もよろしくお願いします」は差し支えないとのことなので、今年もよろしくお願いします。
これもマナーに関する話になるんでしょうけれど、どうも自分的には思考停止みたいですっきりしません。家族を亡くした悲しみはともかく、マナーは「相手に不快な思いをさせない」というのが基本なのかな、と思うと、これが相手を不快にさせるだろうか?と考えてしまいます。
また、年が明けるのが「めでたい」のか、というのもときどき考えるのですが、私はいろいろなことを「愛でたい」と思うので、そこはまあいいかな、と。
思考停止、というところで立ち止まったのは、前回いただいた手紙を読んで「髙橋さんは思考停止してないなあ」と思ったからです。私は「神様サイド」から「ここでは撮っちゃダメですよ」と言われると「ああ、そうですか」と思ってしまう。その「神様」を信じているわけでもないのに。髙橋さんはそこで「思考進行」している。いいなあ、というかちょっと反省しました。
で、ご紹介の『スナップ写真のルールとマナー』(朝日新聞社 2007)を読んでみたんです。なるほど確かに「ルールだからこうしなさい」「マナーに反するからダメです」という抑圧(?)がなくて、おっしゃる通り「開かれている」と感じます。
で読んでいくと、神社仏閣での撮影について「お寺の境内のように管理されている場所での撮影は、管理者の意向に従うのがルールです」とあります。「神様サイド」が「撮っちゃダメ」と言っているならば…(笑)。
もちろん「良い本」に書いてあるからと言って、考えなしにそれに従うのも思考停止ですので、ここでもしっかり思考進行させていきましょう。
『スナップ写真のルールとマナー』がいいのは、ルールの提示に際して、他者との対話が想定されているからだと感じました。ルールが存在するのは必要があるからだと思いますが、その必要に対してそこに関わる人たちの間で、対話や議論があることが大切なのではないか、ということです。一方的に「決められた」ルールというのは、どうもおもしろくないんですよね。
ルールでもマナーでも、それが求める「あるべき状態」というのは、それを決める側とか、それに沿って行動する側とかの中に、あらかじめ「ある」ものではなくて、その間の対話とか議論の過程で「見つかる」ものなのではないか。
「ルールよりマナー、イデオロギーより親切」というのは矢作俊彦の『スズキさんの休息と遍歴:またはかくも誇らかなるドーシーボーの騎行』(新潮社 1990)(書誌を確認しようとしてNDLサーチを検索したところ、ちょっといい本がひっかかってきました。一検(索)をおすすめします)に出てくる言葉なんですが、自分の中に残っています。ルールもイデオロギーも大事、そして、という感じですね。ここにも対話の気配がある、というのは深読みしすぎでしょうか。
生きていればもちろん、ということですが、公共の場所で働いていくとなると、いろいろなルールに関わっていかなければならないし、自分がルールを定める側に立つこともある。そんなときに、どう対話を深めていくか。ルールについての本を、関わっていないようで関わっている本をたくさん読んでおきたいな、と思っています。
ここからは追伸というところでしょうか。こちらも前の手紙で触れられていた、アンドレ・ケルテスの『読む時間』(創元社 2013)、私も好きな本です。巻頭詩の「読むこと」を書かれた谷川俊太郎さんも亡くなってしまった。この詩、ひさしぶりに読み返したら、最後から2行目がとてもよくて、ああ、そうだった、こういう詩を書く人だった、と思い出しました。
谷川さんの死に際して、SNS上でたくさんの人が、それぞれが好きな谷川さんの詩を引用したり、紹介したりしているのを見ました。こんなふうに詩を引用される人にはもう出会えないかもしれないな。
谷川さんや、他に思いつくのは水木しげるさん、こういう人が亡くなると「こういう人は死なないんじゃないかと思っていた」と思ってしまうんですけど、それは生前そう思っていたということではなく、その死のショックで、「思っていた」という記憶を捏造してしまっているんだろうと思います。それも人の死がもたらす不思議な作用なのかな。
髙橋さんが以前(読み返すと8月にいただいた手紙で、私たちはここしばらく「死」の周りをぐるぐる回っているのだな、と思います)引用されていた、人が死ぬのは「人に忘れられたとき」というのを信じれば、谷川さんほど「不死」に近い人というのは珍しいのではないでしょうか。
詩を書くのも読むのも引用するのも、生きていればこそ。生きているうちにやっておきたいことがたくさんあるな、とあらためて感じました。ではまた。(大)
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