姪っ子の口からは、なぜか‘安積疏水’のにおいがする。‘ちいちゃんって、安積疏水のにおいがするよね? 郡山生まれだから??’と妹との会話。私や妹が幼いころ、祖父母の家での思い出の一つに夏に冷蔵庫で冷やした水道水の懐かしい味とそのにおいがある。東北最大の湖、猪苗代湖から奥羽山脈を貫いてつくられた安積疏水から郡山盆地に運ばれる飲料水、まさにその味とにおいなのだ。
Why???不思議よね。
明治初期に行われた安積疏水の開さく事業には、様々な人の思いと英知、そして技術が込められている。これらのどれか一つが欠けても成しえなかっただろう。そんな思いで疏水の原点である石積みの門柱をもつ十六橋水門(水門の数が16ある分水堰)を眺めるとき、この事業のロマンとドラマを感じずにはいられない。安積疏水を設計したオランダ人土木技師のファン・ドールンの銅像も静かにこの地を見守っている。「ファンさん、いい光景ですよね。」このファン・ドールンの銅像にもドラマがある。第二次世界大戦時、敗戦が色濃くなった昭和19(1944)年、軍は金属類の徹底した回収を行い、その際このファン・ドールンの銅像も例外ではなかったが、恩人である彼の銅像を地域の人々は山の土の中に埋めて隠した。足元のセメントは、戦後に再び台座に取り付けた際の跡、勲章ともいえる痕跡である。
さてこの安積疏水の開さく以前に、安積原野の開拓事業があった。江戸時代に書かれた地図には現在の郡山市である安積地方には「不毛」と記され、水利・水源の乏しい地域であった。水田がありながらもその収穫は半分にも満たない貧しい土地、「安積三万石」とも呼ばれたが、これに由来するものである。
明治5年、福島県典事(課長職)として赴任した中條政恒は、士族による安積原野の開拓を建言。旧二本松藩の士族や安積の村からも入植者を募り細々と開墾が始まるが、遅々として進まなかった。そこで地元郡山の豪商らを説得し「開成社」を結社。数年にして百町歩余りの開墾に成功し、開拓村である「桑野村」が誕生するが、相変わらず水の便は悪いまま、やはり郡山の25㎞西方の猪苗代湖からの導水は為さねばならぬ事業だった。
ここで登場するのが、内務卿大久保利通くん。明治9年この地を訪れ、開墾事業に大きく心を動かされ、当時政府が抱えていた失業士族対策と殖産興業の一環として、安積疏水の大事業が国営開拓の第1号事業として現実のものとなる。よっ、大久保くん男前‼
安積疏水の開通を夢みたのは中條ばかりではなかった。その一人小林久敬も安積疏水の必要性を明治政府に訴え、全財産を注ぎ込んで測量や用水路づくりに打ち込んだが、安積疏水の事業に着手した明治政府とは水路案が異なり挫折。妻子にも見放され、失意のもとわずかに残った土地に建てたあばら屋に一人で住み、疏水工事に進言するも聞き入れられず悲しい最期となったのである。
この事業は、当時猪苗代湖から西の会津方面へのみ流れていた川の流れを水門をつくることで調整し、奥羽山脈にトンネルを掘削し東の郡山盆地まで導水するもの、明治政府の予算の三分の一を費やす大事業であった。あらゆるデータをもとに利水のため貯水量を算出、水を科学的に操る西洋の技法が用いられた。
この事業には全国から9藩士500戸2000人あまりが入植、九州久留米藩士をはじめ、岡山藩、土佐藩、会津藩などがこれに当たり3年という短い期間で完成をむかえた。しかし、入植したものは貧しい生活を強いられ、大正5年宮本百合子により桑野村を舞台に書かれた『貧しき人々の群』が当時の様子を物語っている。作者である宮本百合子は、この事業を進めた中條政恒の孫という皮肉、その後の郡山の発展を見たら彼女は驚くに違にない。
こういう状況下、入植した旧藩士が荒れるのも必然、しがらみも土地もお金もない彼らが荒くれ者となり街を闊歩、それゆえ治安の悪い郡山は‘東北のシカゴ’と呼ばれるに至ったのである。高校時代、席がとなりのHちゃんの父上はある組の親分だったっけ。‘東北のシカゴ’行ってみた~い! 刺激的な体験も悪くないでしょ? って今は安全・安心に楽しめる音楽の街となっているので悪しからず。
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