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タイトル ライブラリアン・ラプソディ

32 永遠のビックスター:偉大なる編纂物編

 2023年2月号の『文藝春秋』、「特集目覚めよ!日本の101の提言」の一つに、東京国立博物館長、藤原誠氏の「国宝を守る予算が足りない!」という記事、衝撃的である。昨今の光熱費の高騰により、「東博」所蔵の文化財の保存・管理にも影響がでるというものである。そのため補正予算に盛り込んでほしいと文化庁に要望し財務省へ。しかし、財務省はゼロ査定!という驚きの結果を出した。文化財の持つ普遍的価値と後世に継ぐ重要性をもっとよく認識してもらいたいと語る藤原館長。そりゃそうだよ!視点を資料に移しても、国の対応はずっとこのようなものだった。文化は国境を越え、時代を超え受け継ぐべき人間の英知の結集である。人間も、人間が生み出した文化も軽んじすぎてやいませんか?

挿絵1
※挿絵はクリックで拡大します。

 泣く子も黙る(でしょ?)塙保己一編の『群書類従』。『群書類従』は、小冊の故に散逸の恐れが高い、原則として写本一、二巻(冊子一巻、平均三十丁程度)の古典的著作千二百七十種を校合、編集して、製本刷り六百六十五冊の本文と目録一冊、計六百六十六冊に収めた一大百科叢書である。江戸時代中期から後期にかけての天明六年(1786)から文政二年(1819)の三十三年を要して刊行された。古代から近世までのあらゆる貴重な文献を網羅し、神衹、帝王以下、遊戯、飲食、雑部を含む二十五分野に分類される。これほど大規模の叢書が刊行されたことは、これより先にも後にもなく、画期的な出版事業であった。
 現在ではデータベース化され、キーワードで容易に横断検索も可能になった群書類従(正・続・続々i)であるが、200年以上たった今でもこの業績は、直接、間接に学界に与える影響は計り知れない。

 さて、保己一は幕府からの援助(用地の貸与や何らかの給付など)を受けつつこの壮大なプロジェクトに挑むが、その一つに和学講談所の設立があり、ここを中心に『群書類従』の編纂作業は進められた。和学講談所は、当時「温故堂」という名であり、これは保己一が老中松平定信に命名を請い名づけられたもの。ここからも幕府と保己一のつながりと、『群書類従』編纂への支援の一端を見ることができる。しかし、漢学中心の幕府直轄の昌平坂学問所とは違い、和学講談所は半官半民の組織として、和学の講義、類聚の編纂・刊行が行われ、『群書類聚』の出版費用は保己一の個人的収入が充てられていた。つまり、この歴史的大事業はいわゆる自費出版で行われたのである。

 盲目であった保己一は、当道座iiから支払われる検校としての収入を和学講談所の経営とその事業に費やした。出版事業には多額の借入もあり、保己一の生活基盤すら保障されず、幕府は保己一の実力と力量を高く評価しつつも、幕府組織外の半官半民の組織として上手く利用したに過ぎなかったと言える。なんという悲しい事実。『続群書類聚』(2,103種、1000巻)の出版事業は、保己一亡き後、弟子たちが引き継ぐが、同時に多額の借入も引継ぐこととなったのである。

 明治期以前の日本におけるあらゆる部門の諸事象を対象とした、明治二十九年から大正三年にかけて出版された、我が国最大の百科史料全書である『古事類苑』の場合、もう少し複雑な過程を辿る。当初文部省の事業として発足するが、その後東京学士会院、皇典講究所を経て、最終的には伊勢神宮がこれを受託する形で事業が行われた。明治政府の制度的、財政的理由により、国自らの手では行われなかった『古事類苑』の出版事業、時代が変わっても文化事業にいかに不真面目であったかがうかがえる良い例ではないでしょうか?

 国ってなんでしょう、政府ってなんでしょう、普遍的価値の行く末は?と考えたくなるのも無理はないですよね。


  • i  『続々群書類従』は明治40年ごろ国書刊行会から刊行。
  • ii 当道座とは、中世から近世にかけて日本に存在した男性盲人の自治的職能互助組織。その位は、検校、別当、勾当、座頭。明治4年廃止。

参考資料:
『三大編纂物, 群書類従, 古事類苑, 国書総目録の出版文化史』
熊田淳美著、勉誠出版 2009

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