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タイトル ライブラリアン・ラプソディ

30 外題学問?

 お気に入りの「ほぼ日手帳」を新調。新しい年に新しい手帳での出発は気持ちがいい。最近では携帯で予定を管理する人も多いが、私は断然手帳派である。書かないと覚えられないということもあるが、手帳の一週間の白い隙間が色ペンで埋まっていく様子(何色のペンを使おうかなぁと考えるのも楽しい!)、「私何かやっている!」という満足感がいい。つまらないメモでも、素敵なことに思えてくるから、アラ不思議。

 最近は横尾忠則さんの影響もあって、朝起きて覚えている夢を手帳にメモすることもある。ある日の夢のメモ、「晩年のピカソの恋人(私が)。海岸の町に滞在。夕暮れ時街を散歩しながら、彼を愛おしいと感じる。歴代のピカソの彼女たちもこんな気持ちだったのかな」とか、「靴が片方脱げている。あれ、でも履いてる。でも、バラバラ」など脈略のないものもあり。女の敵(と私は思っている)という意味での宿敵ピカソの恋人という設定、愛おしいと感じたことに忸怩たる思いを抱きつつ、不思議な安心感に包まれていた感覚がよみがえる。一緒に歩いた夕暮れの石畳、キラキラしていてきれいだったな。

 そのほか手帳には、行ってみたい場所、興味を持ったことなどをメモしているから、さながら日記のようである。『日記解題辞典 : 古代・中世・近世』(馬場萬夫編、東京堂出版 2005)を開くと、「こんな日記もあったのか!」と様々な古い日記に出会える。
 「伊能忠敬測量日記」は、寛政十二(1800)年から文化十三(1816)年までの、蝦夷地の第一次測量から九州の第九次測量までの日記である。その日の天候や出発時刻、測量した経路と距離等の測量関係の記録はもちろん、村々についての支配・村高・家数・名主などの詳細な記録に加え、人々との交流や地域の特色もメモ風に記されている。ただの日記にあらず測量記録としても、歴史的史料としても価値あり。また、江戸時代の最高学府である昌平坂学問所の儒者が輪番で書き継いだ「昌平坂学問所日記」は、設立から終焉に至るまでの63年間のうち、48年分を記録した膨大な日記である。講釈・試業・見廻等の学問所の教育活動がまとめられ、近世の教育史のみならず、広く近世史研究全般に有用で貴重な史料である。

挿絵1
※挿絵はクリックで拡大します。

 日記とは広義には、紀行や回想録・随筆の文学作品や、行事の次第・訴訟の文書、犯罪の調書なども日記と呼ぶ例が多い。また狭義には専ら毎日の出来事を日を追って書き継いでゆく普通の形の日次(日並)も指すが、日記の味わい方も様々で、時には個人の心のなかを覗き見ることができるところにもあると言える。
 「野口米次郎-この馬鹿奴!暗誦と女々しさと、情熱のない持久性と。それきり。」『文豪たちの悪口本』、「中原中也の日記」の抜粋である。え~、穢れを知らないイノセントな永遠の少年「中也」、そう信じていた私にとってこの罵詈雑言はかなりの衝撃である。野口米次郎は、詩人であり小説家、評論家としても活躍した人物で、イサムノグチの父親である。あの雑言の後に中也は、彼の詩集を本屋で読んだばかりだが、それだけで評しても差し支えないと認めたから書いたのだとつづっている。中也も嫉妬もすれば、他人をけなしもする常人だったのか、知らなきゃよかった。月夜が陰っていく・・・。

 日本の伝統工芸の一つ、張り子。木型に糊で張り合わせた和紙を何重にも貼り重ね、乾燥したら小刀で和紙を切り離し、木型を抜いて張り子の形にしていく製造工程。その張り重ねられた和紙が、江戸時代から明治初期に木版された書物と聞いてびっくり仰天。しっとりなじむ感じが良いそうだが、それって、資料としても記録としても大切ですよね?張り子の中身が書物、なんとも複雑な気分。書くことの意義とそれを残すことの意味、つまりは図書館につながる道程を、館長室から見えるタラヨウの木を眺めながらじっくり考えることにしよう。

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