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タイトル ライブラリアン・ラプソディ

16 六右衛門・今昔物語

 1613年10月28日満月の日、石巻、牡鹿半島の月浦(つきのうら)を出港したのは、支倉六右衛門、実名常長を大使とする慶長遣欧使節を乗せた「サン・ファン・バウティスタ」号であった。仙台藩主伊達政宗の命により、イスパニア(スペイン)領国のノビスパニア(メキシコ)との直接貿易の実現のため、イスパニア国王およびローマ教皇のもとを訪れるべく日本を後にした。

 一説には、イスパニアとの通商と軍事の同盟を結び、政宗自身が再び天下統一を計ろうと目論んで仕向けた使節だったというものもあり、義経北方伝説同様、歴史にロマンを感じたい気持ちを煽るのである。

挿絵1
※挿絵はクリックで拡大します。

 さて、イスパニアへ向かう途中、嵐のためハバナに寄港するが、これにより支倉常長は、日本人として初めてキューバの地を踏んだ人物となった。オールドハバナといわれる世界遺産に指定された遺跡公園内には、現在支倉常長の銅像が建っている(仙台とキューバの友好の印として2001年に仙台育英高校が寄贈)。凛と遠くを見据えた支倉常長像は、往路の希望に満ちあふれた様子をたたえ、右手に握られた扇は目指すローマの方角を指している。

 「支倉常長像のまえで‘支倉焼’を食べるぞ!」と出発前からカタく心に決めていた友人と私。昭和33年に誕生したふじや千舟の「支倉焼」は、支倉常長の偉業を称えるべく和と洋の要素を取り入れて作られた菓子である。クルミ風味の白あんに、フレッシュバターと卵の皮の相性が抜群で、しっとりとした味わいは格別。灼熱のハバナと支倉像と支倉焼、未知なる三位一体の体験に、テンションマックスの私たち。だが、繊細な支倉焼の味は、常夏の国キューバとマッチしているとは言い難く、ほんのり甘く滑らかな皮は、乾きのためか喉に張り付き、常長の悲しい結末を物語る。そして、通りすがりのハバナ市民、「ツネナガ・ハセクラ?シラナイヨ」えっ、マジですか・・・。

 そんな傷心の私たちを癒してくれたのは、タクシードライバーのアントニオ・ゴンザレスである。流暢な日本語を操る彼は、日本マニアでもあり、家には甲冑や兜などあるとのこと。彼の質問もマニアっぷりを発揮し、「仙台は名取と松島の中間ですか?」、「イチローは長男ですか?」など、脅威の語彙力と知識を披露してくれたのだ。さらにアントニオと交流のある日本人ミュージシャンは、彼との友情の証として「Infanta 657」を作曲、アルバムのタイトルにもなっている。なぜ「Infanta 657」?と思いきや、なんとアントニオの住所という粋な計らいが!ところで彼は、「支倉常長は、仙台藩の武士で、伊達政宗の命令でスペインへ向かった」ことを当然のように把握。ブラボー、アントニオ!2006年、夏の思い出。

 無事イスパニアへ渡り国王フェリペ3世に謁見し、さらにローマでは教皇パウロ5世にも謁見を果たした常長だが、通商に関する成果をあげられず、異郷で7年余りを過ごし帰国する。さらに彼を待っていたのは、徳川幕府のキリスト教弾圧という悲劇だった。帰国後、常長は表舞台に立つことなく、翌年の1621年、あるいは1622年に病気のためにひっそりと亡くなったとされ、没年もはっきりとせず悲しい最期であった。

 石巻市にある宮城県慶長使節船ミュージアムサン・ファン館には、原寸大で復元された「サン・ファン・バウティスタ」号が展示されている。「史実に忠実に地元で造る」を掲げ、木造で原寸大、石巻の造船所で建造し、宮城県内の船大工の手で復元された、「今世紀最後で最大の木造船」である。しかし、近年老朽化を理由に宮城県は修復を断念、解体することを決めた。より強い素材で4分の1のサイズの後継船を造るとしたが、支倉常長らの偉業や木造船を甦えらせた人々への敬意も4分の1に縮小するってことか?
 イスパニアで洗礼を受けた常長、その洗礼名は‘ドン・フィリッポ・フランシスコ・ハセクラ’である。私が足しげく通ったイタリアン・レストランの名は、「ドン・フィリッポ」。私を取り巻くツネナガは、今昔の物語を結びつけ生き続けている。

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