親もなし
妻なし 子なし
版木なし
金もなければ
死にたくもなし
絶望の境地を漂わせるこの狂歌は、寛政の三奇人の一人、江戸時代の思想家「六無斎」こと林子平のものである。蟄居を命じられ、56歳で亡くなるまでの約1年のあいだ、狭く暗い一室に幽閉され、外出も出来ず、読むべき本もない子平にとって狂歌を詠むことが唯一のなぐさめであっただろう。親を亡くし、生涯妻をめとらず、子もいない。子平畢生の大著、十六巻からなる海防の書『海國兵談』、出板資金を募りやっとの思いで自家出版した版木は世の中を乱すとして没収され、お金もなく途方に暮れども死にたくはない。ナイナイ尽くしの自身の半生を詠んだ狂歌、子平が「六無斎」と名乗る所以である。
職場の近所にある和菓子屋の「子平堂」、この林子平から名前を取っている。名物はもちろん「子平まんじゅう」。茶色と白、そして緑色の3種類の饅頭の皮(緑色のまんじゅうは他の2色よりも若干値段が高い!)の中にはあんこがぎっしり詰まっていて美味である。ちなみに図書館キャラクターの‘ぷくてん’の好物は、子平まんじゅうである。
さて、「子平堂」の包装紙、子平をかなりリスペクトしたもので、子平まんじゅうのあんこ同様、子平の業績がギュッと詰まっている。紺地に、見開きの本のページをかたどった白抜きのデザイン、まず目に飛び込んでくるのが子平の著作『三國通覧』と『海國兵談』の文字。そして、『三國通覧(図説)』を彷彿とさせる、蝦夷、琉球を含む日本を中心とした周辺各国の地図と、遊学先の長崎で描いた三本の帆柱を持つオランダ船、また彼が考案したと称される日時計の絵(「紅毛製大東日」と刻す石造りの日時計は現在も塩釜神社にある)、さらに子平の肖像画も描かれている。その手には筆と紙、様々な記録をしたためつつ、軟弱な日本の海防の策を練りながら日本全国を行脚した様子がうかがえる。そして、上記の狂歌も記されており、時代の最先端をいった子平の功績の大きさと、それに伴う悲劇をものがたる。
東北大学附属図書館には、子平の著作が所蔵されている。天明六年に江戸の書肆管原屋市兵衛から刊行した『三國通覧図説』と、寛政三年に刊行された『海國兵談』十六巻三冊である。管原屋市兵衛は、当時の知識人である杉田玄白の『解体新書』や平賀源内の『物類品隲』なども手掛けた、日本橋に店をかまえた本屋である。世界地図や地理書の刊行にも積極的で、世界の情態を日本人に知らしめる役割を果たしていたと言えるだろう。しかし、時代の先を行く著作を出版することは、幕府からの絶板処罰などの危険を伴うものでもあった。子平の著作もその一つで、子平の『三國通覧図説』を刊行したことで、市兵衛も重過料を科せられている。しかし、子平のような反骨のロック魂を持つ著者と出版人の気骨によって産み落とされたこれらの本は、時代を超えて生き残り、現代の私たちの目の前に存在する。この奇跡に感動を覚えるのである。
子平の生涯を小説化した植松三十里著『命の版木』(2008年9月中央公論社刊行『彫残二人』を解題)には、職人気質の女性彫師が登場する。彼女の卓越した技術で、子平の思いを命がけで版木に刻むのだ。そして、恋仲になった彼女のおなかには子平の子どもが・・・。子平!いよいよ‘六無斎’回避なるか!
すくふべきちからのかひもなか空の
恵にもれて死ぬぞくやしき
桜の木の下で、子平まんじゅうをほおばりながら、子平の辞世の歌から彼の無念に思いをはせる、「今年こそ子平堂の子平まんじゅうを持って、子平町の龍雲院に子平のお墓を訪ねよう!」と誓うのであった。
「子平堂」「子平まんじゅう」「子平町」、‘六無斎’改め‘三有斎(さんゆうさい)’ShiHey! いかがでしょうか?
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