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タイトル ライブラリアン・ラプソディ

08 マーチ in March

 時空を超越する美しさ。慈悲ぶかい微笑をたたえた表情、しなやかに組まれた足、頬に軽く当てたなめらかな指に腰から足元まで流れるようにうねる着衣の様子。思わずウットリ。サンスクリット語でマイトレーヤ、「慈(いつくしみ)から生まれたもの」を意味し、慈氏弥勒ともいわれる菩薩半跏思惟像(伝如意輪観音)。右頬に当てられた手は、遠い未来に悟りを開いたとき、どのように人々を救おうかと、まさに思惟していることを表しているのだという。あぁ、何度見てもウットリ。飛鳥時代の最高傑作、半跏思惟像とは二度目の対面となる。一度目は奈良の中宮寺で、二度目は東日本大震災復興祈念の特別展「奈良・中宮寺の国宝展」の宮城県美術館である。仏像を移動して展示する際、仏像から「魂を抜く法要」が行われるそうだ。だからやはりホームに鎮座されているときの方がしっとりと落ち着いた美しさが際立つと感じつつも、再会の幸運を感じるのである。
 
 震災から10年。東日本大震災復興祈念の特別展は東北の美術館や博物館で開催され、東大寺・公慶堂蔵、快慶作「地蔵菩薩立像」や国宝「吉祥天女」、若冲の「樹花鳥獣図屏風」とも対面を果たした。その度に、美しいものに宿る怪異な魔力にゾクゾクし、惚れ惚れし、しみじみと感じ入り、時間を忘れるのである。

 人の時間の感覚は不思議なもので、身体的なものに由来するのか、心理的なものなのか、もしくはその両方なのか、震災が3年前だと言われたらそんな感じもするし、20年前と言われればそんな気さえする。10年は長いのか短いのか?最近書架を歩いていたら、一度水分を吸って膨れ上がり、変色した本に目がとまった。と同時に一気にあの時にタイムスリップしたのである。

挿絵1
※挿絵はクリックで拡大します。

 3月11日の次の日だったか次のつぎの日だったか、電気が復旧し、火災の危険もあるので建物内を確認して歩いた。開架部分の、分類379、社会教育あたりの天井から大量の水が噴き出し、シャワールームと化しているのを発見した。「何ごと!?」・・・。天井を抑える人、バケツで水をかきだす人、天井裏で原因を探る人と無我夢中である。流れ出る水の量にバケツで汲み出す水の量が追いつくはずもなく、散乱した本がみるみる水に浸かり、後に廃棄となった。疲労感と、むなしさと苛立ちがドォーっと押し寄せてきたっけ。あっ、でも私あのとき不覚!?にもお腹すいてた!とこんなことも思い出し、さらにその後に食べたあったかいカップ麺が体中にしみ渡っていく感覚まで蘇ってきたのである。そして、なぜかこの瞬間、10年の歳月をフッと感じたのである。人の感覚って摩訶不思議!

 私の里子おのくんは、東松島からやってきた。長いしっぽでくりくりおめめのやんちゃ坊主(のはず!)。里親募集に申込んでから4年の歳月を経て私の手元にやってきた。宮城県東松島市の小野駅前応急仮設住宅(現在は、陸前小野駅前の空の駅がおのくんの実家)のお母さんたちが中心となり、「東松島を知ってほしい。東松島に来てみてほしい。」との願いから生まれた靴下人形のおのくんは、今ではなんと10万人以上の里親がいるようだ。近年では図書館の震災展示にも積極的に参加してくれたり、私の愚痴を涼しい顔で聞いてくれたりと頼れる存在に成長した相棒おのくん。今日は「めんどくしぇ」(おのくんの口癖)とぼやきながら、机の上で長い手足を投げ出してのんびりしている。

 ドイツ人芸術家グンター・デムニヒによってつくられた「つまずきの石」は、 ホロコーストの犠牲者が住んでいた家の前の路上に、約10㎝四方の小さなブロン ズ製の碑を埋め込むというプロジェクトである。躓き、発見した「つまずきの石」から、今私たちがここにいることの意味を考えずにはいられない。そんなことを思う3月を今年もむかえる。

※これを書き上げた直後の2月13日深夜、福島県沖を震源とする最大震度6強の地震が福島県や宮城県を襲った。社会学者の仁平典宏さんの言うように、私たちは震災後の「災後」を生きているのではなく、災害に挟まれたつかの間の平時「災間」を生かされているのでは?と思い至るような自然の脅威に再び直面したのである。

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