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タイトル 本の風

第3回 「友達50人できるかな」

 この春、退職をした。残っていた有給休暇を全部使い、家を片付け、職場の机も整理し、退職の挨拶をしたら、自分が少しだけ生まれ変わったような気がした。

 勤続28年のうち、19年間図書館で働くことができたが、こんな天職のような場所にいつまでいることができるだろうかという不安はいつもあった。その悪い予感は的中し、民営化の波にのまれ、私は司書から元の事務職に戻ることになった。異動先の課ではパソコンと向き合う時間が予想以上に長かった。それまでは、子どもと本をよりよく結びつけるための行事であるおはなし会などで、親や子どもに向けてわらべうたや素話、絵本の読み聞かせなどを、ボランティアの方たちと一緒に楽しんでいた。そんな自分には、苦行にしか感じることのできない時間となってしまったからだ。

 さて、私と似たような立場に置かれた司書の物語『フィフティ・ピープル』(チョン・セラン著 斎藤真理子訳 亜紀書房)。キム・ハンナは、わけあって病院で薬の臨床試験の責任者の仕事をすることになった女性である。彼女は2年間の契約社員として、大学図書館などで司書の仕事を転々としていたが、だんだん悪くなっていく非正規の待遇に絶望して8年で図書館から離れる。いつも慣れたところで契約が切れ職場を移らなければならず、本も図書館も愛していたにもかかわらず、司書を冷たい処遇で扱うやり方は愛せなかったキム・ハンナ。

 私は彼女がなりたかった正規の職員ではあったけれど、辞令が下れば紙1枚で職場を去らなければいけない一介の事務職。ハンナの場合は転職先の仕事にきちんと適応していく。安定した収入で余裕ができると、本を買って、職場の臨床試験にやってくる患者や一般の参加者たちのために、気軽に手に取れるような本を手渡すようになる。普段は本を読まない参加者に、一晩経つのがあっという間だったと感想をもらい、ハンナは思う。誰もハンナが司書だということを知らないが、ハンナは司書として生きていくだろうと。また、この先どんな職業につくかわからなくても司書であり続けるだろうと。そして、次の給料で彼女は移動式の書架を買ってさらに“ハンナ文庫”を充実させるのだった。

 ハンナの人生に触れて、私は泣いてしまった。キム・ハンナさん、私はずいぶん年上のオンニ(韓国ではお姉さんをこう呼ぶ)だけど、友達になってくれないかな。一緒にチメク(チキンと一緒にビールを飲むこと)しながら日本と韓国の司書事情を語り合いたいよ、と。彼女の静かな決意に同意する、今は司書の仕事をしていない元司書がきっとたくさんいるだろう。けれど、どんな立ち位置でも本と人への愛が少しでもあればこの本を楽しめるはず。

 『フィフティ・ピープル』はタイトルどおり、50人の年齢も性別も職業も違う人たちのオムニバスである。でもどこかですれ違ったり、縁があってつながっていたりして、必ず誰かに共感できる部分がある。私もこれまで数回読み返しているが、毎回違う感動や、推したい人物が現れる不思議な本なのだ。作者は私よりひとまわり若いのだが、どうしてこんなに広い視野で社会を書き、また人の気持ちに寄り添うことができるのだろう。

 よくある質問に「無人島に1冊本を持っていくなら、何の本?」というのがある。この本があれば寂しくなさそうだし、もし誰か連れていけるなら、ぜひ著者のチョン・セラン氏とご一緒したいものである。そしていつも最高の訳で、たくさんの韓国文学と韓国事情を日本の読者に紹介してくれる斎藤真理子氏も付き合ってくれたら、楽しい無人島生活になりそうである。(真)

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