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タイトル 司書の私書箱

No.30「蜘蛛のサイズと日本の手紙」

挿絵
※挿絵はクリックで拡大します。

 暑いですね。「温度が上がれば家に忍び込む蜘蛛のサイズは大きくなる」って本当ですか?

 子どものころ、蜘蛛は苦手でした。痛い目にあったことも、意地悪をされたこともなかったのに、見ると「怖い」と感じたんです。薄暗いトイレで出会ったりすると、叫びだしそうになるほど怖かったです。
 蜘蛛には申し訳なかったのだけど、相性が悪かったんですね。しかし一度も蜘蛛を殺さずにこれまで生きてこれたのは、犍陀多のおかげ、いやお釈迦様の、いや芥川龍之介のおかげかもしれません。無益な殺生をせずに済んでありがたいことです。
 高校生のとき、友人が福音をもたらしました。「あんなにでかい蜘蛛がいるのって、このへんだけらしいよ」と。「このへん」というのは私が生まれ育った地方のことです。友人も蜘蛛が苦手で、私に輪をかけて怖がりだったものですから、それは彼にとって切実な問題だったのでしょう。「だから大学は絶対、県外へ行く」と。大学を蜘蛛に決めてもらったようなもんです。今思えば、その情報どこから?案件ですが、それはここではおいておきましょう。

「あんなにでかい蜘蛛」ということでおわかりでしょうが、怖いのは「大きい蜘蛛」だったんですね。小さい蜘蛛は怖くなかった。ハエトリグモなんてかわいいとさえ思いましたし、今でも思います。「小さいものはなんでもかわいい」と、千年前に言っている人がいたようです。うまいこと言うなあ。
 で、どこからが「大きい蜘蛛」でどこからが「小さい蜘蛛」なのか、それが問題です。
 個人的な問題であるのは間違いない。しかし個人、私にとっても明確な線が引けるわけではない。脚を広げた大きさが、0.5㎝であれば問題なく「小さい」。15㎝ならば間違いなく「大きい」。では1㎝は、たぶん小さい。2㎝も、おそらく。3㎝?どうかなあ。
 これを決めるのは、そのときの気分、なんですよね。そしてあいまいにしておくと、基準は緩いほうへ流れていき、厳しくなることはあまりない(個人的意見)。3㎝?まあいいでしょ、と(いいって何?)。

 図書館の貸出冊数、貸出期間には明確なきまりがありますよね。5冊2週間とか、10冊3週間とか。まれに冊数無制限というところはありますが、返却期限の決まっていないところは聞いたことがないです。図書館の本は公共財、みんなで共有するものなので、ひとりの人がすべての本を、無期限に借りてしまったら困ります。なので、きまりがあるのは当然なのですが、これもちょっと弾力的に運用してみたらおもしろいかもしれません。「貸出はだいたい10冊、おおよそ2週間後に返してね」というふうに。それによって人間の姿がよく見えるようになったりして。

 思えばこの手紙も「1回、だいたい1,000字ぐらいで」という感じで始まったような記憶がありますが、どうでしたっけ。今回ももうここで1,000字を超えているし「基準は緩いほうへ流れる」例にのひとつになってますね。

 創作物については「枠があったほうが表現の幅が広がる」というのは見たり聞いたりしますし、なんとなくそうかもな、という感じはしています。俳句は17文字というきまりがあって、だからこそ描ける世界がある、と感じますが、そのきまりは絶対というわけではない。そのへんがおもしろい。
 なぜ俳句をもちだしたかというと、前回いただいた手紙でロラン・バルトに触れられていたからです。最初に読んだのがこれだったので、私にとってのバルトは今でも『表徴の帝国』(私の手元にあるのは、ちくま学芸文庫 1996年の2刷です)の作家ですね。
 と言っても(例によって)あまり覚えていないので、ひさしぶりに少し読み返してみたんですが、うっすら記憶にあった「何を言っているのかわからないけどおもしろい」感じが、髙橋さんの文章に似ていることに気づいて嬉しくなってしまいました。

 でバルトは俳句の仕事について「完全に読みとりうる叙述を通して、意味の排除を完成すること」と書いています。ああ、なんかそんな感じだったな、と読み進んでいくうちに「俳句って写真に似ているのでは?」と思い始めるんですが、そうするとこんな記述に出会います。
 「俳句の閃光はなにものをも明るくしなければ、照らしだしもしない。その閃光は、人がひどく丹念に(日本式に)撮る写真の閃光である。ただしあらかじめカメラからフィルムはぬきだしてある」
 いやいや、これはここ数か月にわたって私たちが写真について話してきたことではないですか。いや、そうでもないのか。とにかく、あらかじめフィルムはぬきだしてあるんですよ。まいったなあ。

 そして髙橋さんは芥川の「羅生門」からバルトとの関係を結んだようですが、その手紙の結びに「蜘蛛」を登場させたのは、意識的だったのかそうでなかったのか。ともあれ私はその蜘蛛から芥川を思い出し、蜘蛛のサイズから俳句の文字数について考え、バルトに戻ってきたわけで、これはまずまずの冒険、なんだかいろんなことがつながっているな、と思うわけです。

 さて、そんなことを書いているうちにそろそろ2,000字を超えていて、これは「貸出冊数はだいたい10冊」の図書館で「20冊貸して」と言っているようなもので、いや、もうちょっと貸してほしいわけで…。

 バルトの話をもう少し続けると『表徴の帝国』について、「日本はわたしに詩的素材を与えてくれたので、それを用いて、表徴についてのわたしの思想を展開した」と言っているように、日本を素材にいろいろなことを書いているわけですけど、それを読んでいると「これは私の知っている、住んでいる日本なのか?」と感じたり「私の知っている日本、私が考える日本とは何か」と考えたりすることになるんですね。
 今年はバルトの国、フランスでオリンピックが開催されて、フランスから見た日本のことを考える機会もありました。オリンピックというのは競技をみるのはおもしろいのですが、付随してあまり見たくないものが見えてきたりして、複雑なところもあるのですが、「日本のことを考える」機会としてはなかなか得難いものだと感じます。

 日本とは、日本人とは、についてここでは書きませんが(書けるほどのことを考えられない、というのが本音です)、こんなことは昔から考えます。
 ひとつは「私は日本人である。だからこう行動する」という考え方。もうひとつは「私はこう行動する。というのは私が日本人であるからなのではないだろうか」という考え方。これは両方あるような気がしているんです(あ、もちろん「この両方に与しない」もありますが、ここではおいておきます)。たとえば「私は日本人だから、日本選手を応援する」とか「私が柔道を見てしまうのは私が日本人だからなのではないか」みたいなことですね。
 前者は「日本人観」というか「歴史観」みたいのものを基に行動する、後者は行動から歴史観や日本人観を探っていく、形成していくというパターンです。私自身はどちらかというと後者に近いのですが、それは前者に批判的ということではなく、自身の歴史観の欠如というか不勉強をちょっと情けなく思っているという感じですね。
 バルトが提示する日本にも、ハリウッド映画などで描かれるちょっと奇妙な日本にも「これは本当の日本ではない」と言えない日本の私、が浮かび上がってきます。

 そんなことを考えながら、バルトを読んだりオリンピックを見たりした夏でした。「だいたい10冊まで」なのに「30冊貸して!」になってしまいましたが、せめて貸出期限は「だいたい」のうちにおさめておきたいな、と思います。(大)

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