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タイトル 司書の私書箱

No.29「私と写真と『生と死』の手紙」

挿絵
※挿絵はクリックで拡大します。

 こんにちは。
 勤務地の夏のお祭り(相馬野馬追)が、猛暑の影響で今年から7月→5月に開催日が変更されました。ものすごーく季節感が迷走中です。

 写真のお話!小さいころから魂抜かれる系拒絶を続けてきた私には身近な感覚があります。拒絶するからにはきちんと納得済みで拒絶したかったんですね。あれやこれやと考えたのを覚えています。「私」「写真」「生と死」をキーワードにれっつごーです。
 写真に写った人間のようなものや生命的なものを、リアルな「生」として再構築するのは写真を見た人自身です。私の場合、誰かにとってどんなに大切だったり、偉大だったりする人が写真に写っていたとしても、私の感情なり経験なりに響かなければ、その写真は「生」ではなく「死」として過ぎ去っていく感覚が強くあります。
 この感覚は写真に限らず、映像にもある、文章にもある、手紙にだってある、おおう…あれ?これリアルでもあるなあと。関係性が構築されていない人/関心に引っかからない人は、私にとっては「死」の状態になっていると感じているようです。(関心が生まれた段階でその方の「生」が私の中に縁どられることになるのでしょうが。)
 関係性・関心のベースになるのは、実際に関わった事実と、自分の何かが動いた記憶、経験。そう考えると、自分の記憶や経験というものは、有象無象の死の世界の中から「生」を浮かび上がらせるトリガーになっているのではないかと感じます。(余談ですが、私はこの類の「生」と「死」を、物質的な生死より大切に考えたいと思う人間に育ちました。)
 ただ、いかんせん記憶する能力や記憶から必要なものを引き出す能力がどうにもポンコツの私。意識的に「これは(私にとって)大切な経験・思いだから覚えておこう」とやらないと、すぐに記憶が掠れていってしまいます。大切な人の写真や文章、そのほかの思い出の品(大林さんのおっしゃるところの「よすが」ですね)を見たときに、「あれ、前に見た時より『生』が薄くなってる気がする」という事実に気づいてしまって、さすがに自己嫌悪することもたまにあります。
 大切にしたいものを大切に。意思が入っているのでトートロジーではないと思いますが、こんな言葉にも「肉眼で見られないもの」の気配を感じたりするのです。(で、なんか大切にしたいと思う。)

 こんな感じで、主観的な感情でものを見たくなってしまう中二病感満載の私ですが、このあたりの考え方はロラン・バルト(とかショーペンハウアー、ウィトゲンシュタインあたり)の影響を受けている気がします。バルト、なんだか昔から好きなんです。
 学生時代の国語のテストで、芥川の「羅生門」が取り上げられまして。「作中の一文『蟋蟀(キリギリス)も、もうどこかへ行ってしまった』にはどんな意味があるか書け」…のような設問があったのですよ。当時の私はこの設問にとても腹が立ちまして。
 ぷんすかテストを終えたのですが、その後しばらくしてからバルトの『テクストの快楽』を読んだとき「あんな問題、何言ってんだってハナシだよな!」とアニキのごとく寄り添ってくれた気がしてなんだか嬉しかったんです。バルトアニキ。
 『松岡正剛 千夜千冊 3』(求龍堂 2006)で、この『テクストの快楽』が取り上げられているのですが、松岡正剛の文章から一部引用します。

「このバルトにこそ愕然とした。このバルト、というのは、のちに『彼自身によるロラン・バルト』であきらかにされた言い方をつかうなら、「自分自身を定義されることを好まない」という、そういうバルトのことである。このバルトは、だれあろう、松岡正剛にちょっと似ていた。(p. 238より)」

 最後の一文でなんかほっぺたが緩んでしまうんですよね。個人的に偏屈で頑固な人が好きで、そんな人達の影にこんなバルトを見ていたところがあるなあと、つい最近もそんなことを思い出す出来事があったところです(「偏屈で頑固な人」という定義づけは怒られますかそうですか)。
 大人気コミックス『ワンピース』(集英社)に、「人はいつ死ぬと思う…?(中略)…人に忘れられたときさ…!」というセリフが出てきますが、大切にしたい「生」が私自身に殺されてしまわないよう、毎日気づき続けていきたいと思いました。宣言。

 本格的に暑くなってきました。温度が上がれば家に忍び込む蜘蛛のサイズは大きくなります。益虫なのだからとビックサイズ蜘蛛を許容するのか、それとも排除か。暑さに負けず、お互い冷静な判断に努めていきましょう。(高)

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