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タイトル 司書の私書箱

No.28「写真とSNSとよすがの手紙」

挿絵
※挿絵はクリックで拡大します。

 前略。今回は特に「前略」方式で行きます。

 「メールでしかやり取りをしたことがなかった方に、リアルでお会いする」話。これはいろいろと連想が進むお題です。
 最初に思いついたのは夏目漱石の『それから』の中の「写真でしか見ていなかった人物に、リアルで会ったけれども気がつかなかった」というエピソード。ちょっと引用します。

「写真は奇体なもので、先づ人間を知つてゐて、その方から、写真の誰彼を極めるのは容易であるが、その逆の、写真から人間を定める方は中々六づかしい。是を哲学にすると、死から生を出すのは不可能だが、生から死に移るのは自然の順序であると云ふ真理に帰着する」
青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/ より

 これは自分も経験があります。写真から人を特定するのは「六づかしい」(漱石はこういうのも楽しいです)ですよね。その難しさを「死から生を出すのは不可能」と表現している。写真を「死」の一形態としてとらえているんですね。
 「写真=死」とまで言えるかはわかりませんが、たしかに「生」とは少し違うものではあるように感じられます。切りとられた瞬間は、動かず、揺らがず、変化しない。そしてそこには肉眼で見られないものが写る(これはオカルト的なものとそうでないもの両方を含むと考えてみてください)。そう思うと写真は死の表徴として機能するものなのでしょうか。
 写真でしか見ていなかった人物に、リアルで会うことに喜びがあるとしたら、それは意外とクラシカルなことに、生に触れること、生を確認することが喜ばしいことだと、私たちが認識しているからなのかもしれません。

 こんなことを書いていたら、静止画像、つまり写真から動画を生成するAIがリリースされた、というニュースを目にしました。これも「死から生を出す」ことを可能にしたい、という人間の欲望のあらわれだと感じます。動画は文字通り「動」きますから写真より「生」に近いのでしょう。

 さて、メールの文面も表面上は、動かない、揺らがない、変化しない。ある意味では「死んでいる」。その死んでいるものを、その方が生きていることの「よすが」として、われわれは読んでいるのではないか。そんなことを思います。
 またそこに「肉眼で見られないものが写る」か、という問題ですが、これは、その人がライブで話すこととは違うものが、文章に現れるのか、と問いを立てなおしてみると、どうも、そこに「肉眼で見られないものが写る」ような気がしてくるのです。

 講演会や研修会など、ライブで話を聞くと「ああ、ライブに参加してよかったな」と思います。ただこれは、同じ内容を文章で読むことの方が劣っている、ということではないように思えます。その人の伝えたいことの別の部分が、別の伝わり方で伝わるのだ、というような意味です。
 ときどき聞くように「書いた文章を見ればその人がわかる」というふうには私は思いませんが、その人と私の間に、その人の書いた文章があるならば、私はその文章を、その人が生きていることの「よすが」として読みたい。そこに「肉眼で見られないもの」が写ろうが写るまいが。いや、踏み込んでいえば、それはやはり「写る」んだと思うんです。それが、文章の力というものではないか、と。

 「リアルでお会いする」前後の話としては、まあ現代の話ですからSNSというものがやはり登場しないわけにはいかない。
 時代だな、と思うのは「SNSでしかやり取りをしたことがなかった方に、リアルでお会いする」パターンですが、それとは別に「リアルでお会いしてSNSでつながったが、SNSがなかったらここまで深く知りあうことはなかっただろう」というのもあります。
 ある人と「その人の本を読む」「その人の研修会に参加してリアルで会う」「SNSでつながる」という流れがあって、その後いっしょにお酒を飲んだり、旅をしたり、ついにはいっしょに本をつくることになる、ということがありました。メールや電話などで直接やり取りをするようになる前に、SNSでお互いの好きなものや考え方を知ることができたのが、その後の関係を深めるのに役立ったのではと思っています。

 手紙もメールも、基本的に「あなたに差し上げるもの」「私にいただくもの」だと考えています。それはたいへん貴重なものではありますが、それとは別の貴重さがSNSにはあるな、と思います。それは言ってみれば宛先のない手紙やメールであり、それでも私のところに届く、という貴重さです。
 そういったさまざまな貴重なもので紡がれた関係は、手紙やメールが届かなくなっても、SNSの更新が途絶えたとしても、続いていくのではと思います。そこにその人の書いた文章があれば、私はそれを、その人が生きていること、生きたことの「よすが」として読むのでしょう。
草々 (大)

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