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タイトル 司書の私書箱

No.27「『本と君との間には』の手紙」

挿絵
※挿絵はクリックで拡大します。

 「私の中に入っている本の9割は仰向けになって読んだもの」
これはとってもパワーワード。残りの1割はうつ伏せということで。
 仰向けで読むと、読んだものが上から降りてきて自分の中に入っていくような感覚があると。これもなるほど。私も自分の読書について、ちょっと独特な感覚があるような気がしていた時期がありまして、大林さんの手紙を読んで、改めて本と自分の間にはなにがあるんだろうなーなんて考えてみたりしました。
 「自分の経験」は、本と自分の間で触媒になっているのか、それとも自分側のコネクタになっているのか。本と自分は、対立しているのか、隷属(自分が本に)しているのか。それとも選択(本を自分が)しているのか。何かを求めてページをめくったときと、求めてなどいなかったときとの、本を閉じたときの自分への影響の違いとか。
 そのあたりをちょっと整理して考えてみると、「生きるための読書」とか「子どもには空想という逃げ場が必要」とか「課題解決型読書(こんなことは言いませんか!)」とか「本との出会い」とか、繋ぐべき手と手が見えやすくなるような気がしました。
 私個人としては、読書支援という大きな流れのなかで個人を考えるよりも、個人の読書を考えていって、そこに個別に寄り添った結果が積み重なって読書支援と呼ばれていた(多様性の擁護!)…みたいなほうが自分ごととしてみたら好ましいなーなんて思っているので、先の整理は仕事のヒントになるなあ…と北関東に向けて感謝の念を飛ばしたところです。
 おそらく念より手紙が早く着いていることと思いますので、遅れてでも念が届きましたら、その念は私の感謝ですのでよろしくご査収ください。

 さて、話は変わって先日、メールでしかやり取りをしたことがなかった方に、リアルでお会いする機会をいただきました。こんな出会いに特別感を感じるのは時代遅れの人間だからなのかもしれませんが、考えてみると社会人になってから、話や評判、実績や成果が先に走ってきて、本人が後から来るというパターンをよく見ているような気がします。
 今回お会いした方とは、実際にしゃべってみて私としてもとても充実した楽しい時間を過ごすことができました。日ごろから大変お世話になっている方で、メールでのやり取りの中でも感謝とリスペクトを持っていたのですが、お会いしてからは「メールの向こうにあの方がいるんだな」と実感がわいて、より親近感がでたのが正直なところです。
 ただ、そんなタイプの出会い方も、振り返ってみると難しいケースもあるなあと。初対面のあと2回目に会うのが怖くなってしまうんですよね。まあ、そもそも人見知りなので初対面も怖いんですが、それは置いておいても2回目のハードルは高い。
 「あ、あの人こんな面白いところがあるんだ」「普段会ってるあの人はこんな考えをもっていたんだ」みたいなほうが、地続き感があって安心するといいますか。「会う日、会う時間」を決めて会う関係ではなくて、学校のクラスメイトのように毎日同じことをやっている中で時間とともに積み重なっていく関係性といいますか。
 そんなやり方でこの時代のスピードについていける気はまったくしないのですが、でも、それが自分の正直なところなんですよね(多様性の養護!)。
 無理やり読書につなげれば、手元に残っている本との付き合い方もそんな感じがあるような気がします。自分と本が元々持っていた関係性/距離を前提にして、そこに現実であったことが入り込んでくる。なんなら日常で起こった出来事を、自分と本の関係性のフィルターを通して見ている…みたいな。
 そう考えると、自分と本の間にも、時間とともに積み重なっていく、影響力を持つ何かがあるのかもしれません。「出会う」ことはもちろん尊いものですが、すでにそこにあるものに気づく、気づき続けていくというのも同じくらい大切な視点かなあと、かなあと、かなあと、不真面目にふざけに寄せてみました。ちなみに私は本を読むときはワインかウィスキー、文章を書くときはウィスキーを飲みながらが調子良いです。
 
 なにがどうというわけではないのですが、2人で歩きながら雨にぬれるのは案外笑えてしまうもので。悪になれるかどうかはわかりませんが、冷たい雨も使いようといったところでしょうか。(高)

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