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タイトル 司書の私書箱

No.24「校正と草履の手紙」

挿絵
※挿絵はクリックで拡大します。

 こんにちは。
 くださったお手紙に「失礼」があったとのこと。出した手紙は手元に残らないが、いただいたものは持ち続けられる。読み返してみたのですが、どこが失礼だったのか、まったくわかりませんでした。失礼認識なきところに失礼なし。忘れてください。

 「謝るくらいなら最初からやるな!」ですが、似たような言い回しに「ごめんですんだら警察はいらない」なんてものもあります。そこで公権力を介入させちゃうかあ、という感じですが、ふと「ごめんですんだら校正はいらない」などと連想してしまったんです。
 図書館の仕事では日常的に校正をしますし、本の出版に関わるとなると大量のゲラと、場合によっては何度も向き合うことになります。たいてい複数の目を通って完成に至るわけですけど、なかなか完璧とはいきません。何かしら間違いが残ってしまう。
 本が出来上がったあとで重大なミスに気がついて「すみません、見逃してしまいました。ごめんなさい!」なんてことになったとき、郵研社さんの編集者さんが「ごめんですんだら著者校正はいらねーんだよ!」と鬼の形相で凄んでいる場面を想像してしまって。いや絶対ないんですけどね。
 しかし万が一そんなことになったとしても、その本が紙の本だった場合と電子書籍だった場合では、怒り(いや、怒りませんけど)のボルテージが違ってくるのでは、と思ったんです。
 紙の本は、完成してしまうと内容を修正するのが難しい。ときには正誤表が入っていたりしますし、回収されることになったりもします。労力も金銭的な負担もたいへんです。「ごめんですんだら校正はいらねえんだよ」と言いたくもなります。
 これが電子書籍だったらどうでしょうか。修正は紙の本に比べれば容易です。郵研社さんの編集者さんに「修正お願いしたいんですけど」と言っても「チッ」と舌打ちされるぐらいでしょう(されません、絶対されませんよ!)。電子書籍が「本を出す」ことへの「ハードルを下げた」「門戸を広げた」と思うのは、こういうことを考えるときです。

 図書館での新しい取り組みなどについて言えば、スタートは切りやすいほうがいいと考えてきましたし、今もそうです。完成度は徐々に高めていけばいい、と思えるのは「永遠に完成しない」宿命の図書館で働いてきたからなのかもしれません。
 さらに言えば人類の営み自体が壮大なトライ&エラーの繰り返しであり、積み重ねである、とも捉えられるわけで、失敗を恐れて何かを始めないことのデメリット、損失の大きさを思わずにはいられません。
 ぎりぎりまで校正を重ねる紙の本も、いつかは校了としなければならない。そしてその本も完璧であるとは言えないのです。なぜなら完璧な本などといったものは存在しないからです。 完璧な村上春樹のものまねが存在しないようにね。
 ですから本も間違いを含んでいることを覚悟のうえで世に出される、すべてのトライ&エラーの流れの中にあると言えるのではないでしょうか。
 
 この手紙が届くころには少し暖かくなっているかもしれませんが、今のところまずますの寒さが続いています。暖房便座のありがたみを感じます。しかしその真価を思い知るのは、そのサービスが何らかの事情で行われていないときなんですよね。座って「冷たっ」となって初めて「ああ、暖房便座とはありがたいものだったのだ」となる。
 ふだんは「ありがたい」とは思わずに使っていて、それぐらいのサービスがちょうどよい。「温か~い」と思わせなくていい、むしろ思わせない方がサービスとしては洗練されている、と言えるのではないか。
 
 秀吉が信長に温かい草履を用意し、いったんは信長を怒らせたが実は…というエピソードがあります(史実かどうかはさておき)。これも信長が「温か~い」と思うのではなく「冷たっ」と思わない程度の温度に温めていたらどうだったか。信長は秀吉の心遣いや能力を知ることなく、秀吉の出世もなかったのではないか。
 そう考えると「気づかせるサービス」「気づかせないサービス」どちらがよいのかは、場合による、その対象による、という、言ってみれば当たり前の話になってしまうのかもしれませんね。

 ただ「気づかせる」「気づかせない」以前に「まったく気づかれていないサービス」の存在を、大切な(特に潜在的な)サービス対象に伝えられていない、ということがあまりに多い、と感じています。
 その部分についてはもうエラーを恐れることなく「永遠に完成しない」サービス構築に向けて、大胆にトライし続けるしかないのでは、と思います。(大)

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