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タイトル 司書の私書箱

No.18「グラデーションとリノベーションの手紙」

挿絵
※挿絵はクリックで拡大します。

 こんにちは!
 「隠れ家が必要な(無いといけない)社会というのもちょっと歪んでいる」。
 これはなかなか語りでがありそうですね。もうアジトの話が始まってから4通目の手紙になりますけど、もう少し続きます。
 真剣に隠れ家を必要としている人、たとえば「見つかったら命が危険にさらされる人」なんかから見たら、「懐かしい」とか「森に」とか「円都(イェン・タウン)に」とか、「冗談じゃねえぞ」ってところですよね。
 そういう人たちのことを想像できなくてはいけない。
 そして同時に「隠れ家」という言葉を冗談で使える社会であってほしい、と思うわけです。
 本当にギリギリの、キリキリするような意味で「隠れ家」を必要としている人から、「心のオアシス」のような「隠れ家」を求める人まで、いろいろな人がいる。
 そのグラデーションがある、認められる社会が「生きやすい」「暮らしやすい」社会なのでは、と。
 いや、これも難しいな。グラデーションが認められるというのは「命が危険にさらされる人がいる状況」を肯定するのではなくて、そういう人たちの立場に立って考えられる、とでも言いましょうか。

 以前、同僚と「(これからつくる図書館は)どんな図書館がよいのか」と話していて「グラデーション」という概念に気がついた、ということがありました。
 例えば館内の音について。一切の物音を許容しない図書館から、鼓膜が破れそうな音量でBGMが流れる図書館まで、とりあえず想像してみる。
 例えば館内での飲食について。一滴の水も飲めない図書館から、くさやの干物を七輪で焼きながら酒が飲める図書館まで、とりあえず想像してみる。
 ふたつの軸を考えただけでも、そこにマトリックスが生まれ、その中にグラデーションが出現する。それは2択とか4択の世界ではない。
 そのグラデーションの中で、自分たちが、そのまちが必要としている図書館は、どこにあるべきなのか。
 そんなことを話し合ったのです。
 そのグラデーションのどこかに図書館があることを意識すれば、すべてのグラデーションの中にある人を包摂する図書館に近づけるのではないか。
 そんなことを考えたのです。

 さて、話は変わりますが、最近「リノベーション」がよく視野に入って、いやもう少し、視野を覆いつくして、いやいや、そんなことはない、とにかく「リノベーション」が気になっているのです。
 前の職場のご近所は、リノベーションの素材としてとてもいい、いい意味で時間の重みを感じさせる、風格ある建物があったこともあって、リノベーション、それもセルフで、という物件がたくさんありました。
 友達のひとりは商売をしていたビルをリノベーションして、私設公共図書館を開館しようと目論んでいます。
 前の所属先は中央館が「大規模改修」に臨んでいるし、と思ったら今度はリノベーションを企画している図書館から「おしゃべりしに来ないか」と声をかけてもらいました。

 そんなこともあって、リノベーションのことを考えているのですが、どうやら大切なのは「新しい機能」なのではないか、と。
 傷んだところを修復する、汚れたものをきれいにする、というだけではなく「機能を付け加える」ということですね。
 図書館のことを考えるとわかりやすいです。「本を借りる、本を読む、だけの場所ではありません」。よく見聞きする文言です。これまで、そう思われてきた(または思ってきた?誰が?)けれど、そうではないんですよ、と。
 ではどんな場所なのか、どんな機能をもつのか。それを表現するにはリノベーションはうってつけの機会であり、方法である、と思えます。

 ただ、リノベーションの時期にない図書館は新しい機能を付け加えられないのか、というとそうではない。既存の椅子の置き場所を変えるだけでも、向きを変えるだけでも、人の行動パターンは変わりうるし、それによって図書館に新しい機能を付け加えることができるかもしれない。
 そう思うと、もしリノベーションをするならば、と考えることはどんな図書館、図書館員にとっても楽しく、有益なのではないでしょうか。

 また、図書館だけでなく、公共空間(私設、公設を問わず)のリノベーション事例がよく見られることは、今、「公共」に対する考え方が変化の動きの中にあることを感じさせます。とりわけそれが新築、新設でなく、既存のものを活かすというところに、逆説的に「新しさ」を見るのは考えすぎなのでしょうか。

 と「手紙」という伝統的なメディアの新しさについて考えながら書いています。(大)

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