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タイトル 司書の私書箱

No.13「タイパと迷子の手紙」

挿絵1
※挿絵はクリックで拡大します。

 こんにちは。ベランダに黄色の粉の層ができています。目の前にヒバが数本あるのですが、たぶんそれのアレだと思います。いい加減この量はないだろうと笑えてしまうくらい。
 先日、酒屋さんでちょっと思い入れのある秋田のお酒を見つけました。華がある!ってタイプではないんですが、やわらかくて色々な味がしてホッと安心するような、私、好きな銘柄だったんです(「美稲」というお酒です)。で、そのお酒と再会する数日前にこれまた好きな音楽の、高田漣さんの『系図』という曲を聴いていたのですが、世界観がこのお酒とぴったりで!最近の私事と相まって「自分が一区切りつけるなら、この酒だろう」と、自分なりの心意気で一升、頂いてきました。歌の親父さんのようにはなれず毎晩考え事をしながらちょっとずつ飲んでいるあたりが恰好つかないんですけどね。

 お手紙にあった「タイム・パフォーマンス」は、かけた時間と成果のバランス(割合)ということですよね?「少ない時間で最大の成果を!」…なにやら普段からちょこちょこ耳にしている気がします。小さな単位時間での成果を終わりの時まで積み上げていくというのは、なにやら積分の作業っぽくて良いですよね。ただ、私の性格的には、全体の成果を細切れにして都度プラスを取っていくというよりも、成果(やったこと)には全体として一貫性を持たせたい派でして。何ならフォントくるくるのような「無意味の意味」の価値も個人的には大事だと思っているので、全体で見てプラスになっているなら、それはもう成果として盛り込んでいきたいなーなんて思ったりもします。
 タイム・パフォーマンスの考え方が、「成果/費やす時間」の割合だとすると、分子の値より分母の値のほうが最終的なズレの大きさにより関わってきますよね。(例:100÷3(33.3…)を考えたとき、分子を1増やした101÷3(33.6…)と分母を1増やした100÷4(25)では元の100÷3とのズレが後者のほうが大きくなる)
 なので「費やす時間」をきちんと考えることは重要なのだと思うのです。
 終わりの時とはいつなのでしょう。死ぬまでの時間がわからない。費やせる時間がわからない。10年?30年?50年?
 「わからないからできない」「わからないからやらない」も時には大事な考え方だと思いますが、「わからないけどやりたいなら仮に決めてしまう」というやり方も学校で習ったことがある気がします。うん、よし。
 例として60年で一区切りと仮定してタイム・パフォーマンスを考えてみます。60年以降のピリオドは「タイパ」とはまた別な指標を…ということにしておいて(同じでもいいですが)。すると、38歳の私がかけられる時間は、あと22年。この22年で最大の成果を自分に残すには?…5年分くらいフォントくるくるができそうです。
 そう考えると、成果にも種類がある気がしてきます。「積み上げてきたそのこと自体に価値が出るもの」「単純に大きな値」「満足度」…。なにを成果ととるのかという選択も、スタイルと関係してくるのでしょうね。個人的には、大小はさておき自分の中に確かに残っている成果であるなら、自分の「タイム・パフォーマンス」積算式の分母は、秒も分も日も年もつかない“1”でありたいなあ…とか、お酒美味しいです。

 好きな「無意味の意味」イメージで「迷子」があります。知らない道をまっさらな気分で歩いたり、行く道を選べたりというのは案外良いものなのかなと。どっちに転んでも楽しめる。思っていなかったものが見つかる。おおきくなるっていうことは。多分、今のところの私のスタイルは「よく知っている道から見えるものを、面白く見ようとする」だと思うのですが、「知らない道を求める」というスタイルもやっぱり恰好良いなあと思ってしまうのが正直なところです。スタイル話は、広い分薄くなることもある気がしますが、バックグラウンドの土壌を分析してみるのは面白い。そんなどこにも落ちない話をする時間も「無意味の意味」で拾ってもらえないかなあと、独り言ちる春の夜でした。(高)

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