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タイトル 司書の私書箱

No.6「公案と転びの手紙」

挿絵1
※挿絵はクリックで拡大します。

 こんにちは!暑い日が続いています。ドラゴンレーダーは完成したのでしょうか。長い夏休みが欲しいですね。

 さて、エピグラフ。まず思い出したやつをひとつ。サリンジャー『ナイン・ストーリーズ』(新潮社 1974)のエピグラフはこんなのでした。
「両手の鳴る音は知る。片手の鳴る音はいかに?」―禅の公案―
 これは新鮮でした。出会ったのが10代の頃だったこともあって、「禅?ナウくないじゃん」(時代)なんて思ったりもしたんですが、考え出すとなかなかおもしろいんですよね。「公案」という言葉も、ここで初めて知った気がします。
 さて、この公案「片手だけでは音は鳴らない、もうひとつの手と出会ったときに初めて音が鳴る」という意味だと考えて、それが「普通の解釈」だと思ったのですが、友人たち(この本は私の世代の課題図書みたいなもんで、読んでない人がいないような状況だったんです(誇張))と話してみると、本当にさまざまな解釈があって「何が普通なのかはわからない」という教訓を得たのでした。
 
 ひさしぶりにこの公案を思い出して「片手の鳴る音?」と考えたときに、右手の、親指以外の4本の指を、掌に打ちつけていたんです。少し音が出ます。初めてこれを読んだときも同じことをした記憶があります。「片手、鳴るじゃん」なんてね。成長のない証です。しかしこれは「片手の鳴る音」ではないですね。「指と掌が鳴る音」であって。

 やはり片手は鳴らない、もうひとつの手と出会わないと、と今でも思います。往復書簡なんてその最たるものなのではないでしょうか。そのとき書いているのはひとつの手のように見えるけれど、実はもうひとつの手とぶつかって音が鳴っているのではないか。
 ところで最近読んだ本で、ふたりの書き手が交互に文章を綴る形式のものがあったんです。とても良い本だったのですが、一か所おもしろいところがあって「この本は往復書簡でも対談でもない。そんな予定調和ではない」というようなことが書かれていたんです。そ、そうか。往復書簡は予定調和に陥ることもあるのか、と。「司書の私書箱」には何か予定があるんでしたっけ?あるのなら調和することも吝かではないのですが…。

 おっしゃっていた「転ぶときは人が見ているところで転べ」。なかなか深い公案ですね。いろいろと解釈ができそうです。
 昔、『ナイン・ストーリーズ』を読んでいたころ、友人に「どんな女性が好きなのか」と尋ねられたことがあります。何か気の利いたことを言わなきゃと思って「転んだときにかわいい人」と答えたんですが(今思えば、特に「気が利いてる」わけでもないですね)、友人には「そんなの難しすぎるよ」と言われてしまいました。これは「片手だから鳴らなかった音」なのか、それとも何らかの音が鳴ったのか。

 何にしても「転ぶ」というのは人間にとっていろんな意味をもつ行為ですね。子どものころはよく転ぶけれど、時間が経つにしたがって、あまり転ばなくなる。転んだとしても、転ばなかったような顔をするようになる。さらに時間が経つと、また転ぶようになる。我々はどこかから来て、どこかへ行くんですね。

 エピグラフ、もうひとつ書こうと思ってたんですけど、ちょっと長くなってしまいました。またの機会にしましょう。別に予定調和を避けたということではありませんよ。
 今回はなんだか懐古調でしたね。しばらく転んでなかったけど(いや、転んでたのに気がつかなかったのか)、また転びそうな気がします。転ばないために歩かない、のではなく、せいぜいにぎやかな音を鳴らして転んでみるのも悪くないか、などと思っています。(大)

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