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タイトル 司書の私書箱

No.4「前置きと枕の手紙」

 こんにちは!
 今回の本題は前置きですが(?)、その前に前置きの前置き。
「観測された瞬間に時はラーメンに収束する」
 いやあ、何をおっしゃっているのかさっぱりわかりません。往復書簡を始めてよかったなあ…。

 では本題の前置きです。「前置きの文化」と聞いて「そうか、確かに前置きも文化だな」と思ったのです。何も考えずに言葉を使っていて迂闊なことだ、とも感じますが、教えていただく機会が増える、と思えば、それも悪くない、というところです。
 で「前置き」を調べると、華道の言葉でもあるそうです。「立華の七つ道具」は「真・副・受・正真・見越・流・前置」。なんか「文化」っぽくなってきました。

 小説における「前置き」の代表的なものに「まえがき」があります。「まえがき」が魅力的な作家というとケストナーを思い出します。本題に入ることから逃避しているような、本題と関係がないようなあるような、メッセージ性があったりなかったり、そしていつもユーモア(これも難しいことばです)をたたえた、本題を読み終えたあとに戻ってきたくなるような「まえがき」。
 ケストナーから連想されるのは「焚書」です。「ナチスにとって、ケストナーは好ましくない作家だったので、図書館の棚からケストナーの本が引っこめられたりしました」と、これは「まえがき」ではなく「訳者あとがき」にあります(『飛ぶ教室』ケストナー作 池田香代子訳 岩波少年文庫 2006)。
 こういったことは規模や種類は違えど、いつでも起こりうることですから、自分がどこに立って、どう動くのか、日ごろから考えておきたいものです(ちょっと「司書の私書箱」らしくなりましたかね)。

 もうひとつ前置きの話をしましょうか。落語の「前置き」は「枕」ですよね。本題の頭をのせるもの、という意味でしょう。これも落語家、噺家によってさまざま、個性が出るところですが、私が好きなのは、本題と関係あるのかないのかよくわからない枕、ですね。これはケストナーのまえがきと同じ。違うのは、聴き終えた後で戻ってきたい、とは思わないところ。このへんは読む文芸と聴く文芸の違いなのか、それとも個人的な嗜好の問題なのか。

 枕といえば「漱石枕流」という故事がありますよね。夏目漱石のペンネームの由来になっているという。「石を枕に、川の流れでうがいをする(ような暮らしをしたい)」と言うべきところ「石でうがいを、川の流れを枕に」と間違い、からかわれると「それでいいのだ」と開き直ってしまう話です。
 私も偏屈で、負け惜しみを言ってしまうほうなので、これはけっこう共感します。もちろん漱石にも。
 しかし「漱石」と対になる「枕流」を名のる作家は知られていませんね。大成したらおもしろいし、漱石文学のパロディなら使えそうな気もします。「高橋枕流」とかね。

挿絵1
※挿絵はクリックで拡大します。

 それはそうと、流れを枕にするのはちょっとかっこいいですが、実用的ではない。石もねえ、あまり使い勝手がいいとは言えません。司書的で、なおかつ快適な眠りをもたらしてくれる枕とは?
 試しに、今「漱石枕流」を引いた『広辞苑 第四版』(新村出編 岩波書店 1991)を枕にしてみたんですが、ちょっと高すぎるみたいです。しかし昼寝ぐらいはできるかもしれない。
 何かちょうどいい高さの本があれば(本限定か?)教えてください。ブックカバーじゃなくて枕カバーを本につけるのも楽しそうです。その本を読みたくなったら枕カバーから取り出して読むのです。
 眠くなってきました。とりあえずは広辞苑でやすんでみます。ではまた。(大)

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