「一丸となって」という言い回しに違和感があります。危なっかしいと思います。
「一丸」は幻想なのに、誰もそれを指摘できない。「一丸」になれない人はものが言えず、そもそも存在を無視される。「一丸」が失敗したときには、身内の裏切り者のせいにされかねない。でも、「一丸」による視野の狭さそのものが、変化が激しく複雑な現代世界では明らかにリスクです。
いろんな人がいて初めて成り立つ社会が「一丸」となるのは無理。それは分かりやすい。では、もっと小さい単位では?
たとえば。チームの中の複数のメンバー。
図書館という職場もチームです。私は図書館の研修講師を頼まれると、「(ほぼ)全員司書の図書館は危ない」とお伝えしています。その理由は、一丸になりやすいから。
あるいは、家庭の中の複数の家族。
この夏、月1回のペースで始めた家族会議でも、家族全員が平等の発言権をもち、自分の意見を安心して語れる場づくりを心掛けています。
ついでに、私の中の複数の私。
私の中に複数の私(サブキャラ)がいることを自覚したのは、昨年、IFS(Internal Family System model:内的家族システムモデル)のワークショップに参加したときでした。大抵の人は、仕事や生活の難問に出逢ったとき、いろんな感情が津波のように押し寄せて混乱した経験をお持ちでしょう。そんなとき、自分の中にいろんなサブキャラ(IFSではパーツと呼びます)がいて、それぞれの感情や望みがあると見なします。一人ひとりのサブキャラの言い分をよく聞いてみると、あら不思議。だんだん頭も心もスッキリしてくるのです。
たとえば、明日が締め切りの仕事が、夜中の0時近くになっても完了しないとき。私のサブキャラたちはこんな会話を繰り広げるかもしれません。
「一人ずつ順番に、感じていることや思っていることを教えてくれるかな?」
「予定通りに進めなければ、明日が大変になります。仕上げるまでがんばりましょう。」
「徹夜なんて勘弁してよ。ぜったい明日がつらいよ。でも仕上がらないと叱られる… 」
「久々の徹夜かも。楽しいじゃん!今夜は満月だから、まずは夜のお散歩で気分一新だぜ!」
こんなやり取りをしているうちに、だんだん解決の方向が見えてくるのです。
私が複数いるという発見は、わが人生にとって画期的でした。すんなりとこの発見を受け入れることができた理由は、まず、IFSの効果が大きかったから。でも、同時に膨大な本の世界に親しんできたおかげでもあります。何百万冊という本には、フィクション・ノンフィクションを問わず、それ以上の数の人々が描き分けられています。それらを読むことで、私のサブキャラたちのそっくりさんを多数見かけてきたのです。
IFSについて知るにはこちらの本がオススメです。
リチャード・C・シュワルツ『「悪い私」はいない:内的家族システムモデル(IFS)による全体性の回復』日本能率協会マネジメントセンター刊
さあ、あなたの身の回り、そして頭の中の「一丸」を探ってみましょう。見つけたら、「無理して一丸にならなくてもいいんだよ」と声をかけてみるのです。声かけが難しければ、想像するところから始めてみてはいかが?お試しあれ。
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