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タイトル 本の風

第15回 「小確幸(しょうかっこう)」

 久しぶりに邦画を観た。目当ては村上春樹氏が原作の『ドライブ・マイ・カー』。アカデミー賞等で話題になったおかげで近所の映画館でも上映していた。余韻に浸りたいので映画は一人で観ることにしているが、正解だった。
 帰り道、川沿いの細道を自転車でゆっくり走る。夜の11時過ぎ、月明かりの中で聞こえてくるのは川の音だけ。映画のワンシーンや、原作が収録されている『女のいない男たち』(村上春樹/著 文藝春秋)の印象的な場面をつなぎ合わせて妄想する。小さいけれど確かな幸せを感じるのはこういう時だ。

 思い返せば、高校時代に書店でアルバイトをしていた時に『ノルウェイの森』(村上春樹/著 講談社)が大ベストセラーになっていた。小さな店だったが、クリスマス時期は1日に何度もあの赤と緑が印象的な装丁の本を、ラッピングして売ったことを覚えている。そんなに人気なら読んでみるか、と手に取ったのが始まりだった。あれから30年以上経つが、今でも新作が出るとなればすかさず予約して、必ず手に入れる。面白いとか面白くないとかそんなことは問題ではない。ただただ村上ワールドに浸りたい。そうした読者が世界中にたくさんいるから、新刊が出るたび話題になるのだろう。

 『村上春樹のせいで』(イム・キョンソン/著 渡辺奈緒子/訳 季節社)は、私と同じように高校時代に『ノルウェイの森』を読んだことがきっかけでその世界に魅了された著者が、タイトルのとおり、なぜここまで人生を共にすることになったのかが書かれている。
 今まで発表された作品や彼のことばをもとに構成されているのだが、そのすべてに愛を感じることができる。極めつけは20ページにもわたる仮想インタビューだ。研ぎ澄まされた質問に知りたかった答え。読んでいて嬉しくてたまらない。仮想のはずの答えがあまりにもイメージどおりで、ファンを極めるとここまでくるか、と拍手喝采したくなる。
 エピローグでは、著者が本を書き終えた後、記念旅行として東京に行き、ゆかりの地を訪ねたことが記されている。早稲田大学や、アルバイト先があった新宿歌舞伎町、散歩コースだった青山墓地周辺に、行きつけだった喫茶店。さぞかし幸せな文学散歩だったことだろう。同じことを自分もしているので、気持ちがよくわかる。

 日本語版のためにかかれた序文に「まさに村上さんは、国家に属する国民としてではなく、どこまでも個人として生きるということの大切さを世界の読者たちに教えてくれた。こうした価値観は今の国際情勢においてこそ重要である気がする。」と書かれた一文がある。同じ作者のファンの一人として、このことばに出会えたことに感謝したい。私も心からそう思っている。(真)

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