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連載エッセイ うごく・はこぶ 石川敬史

24 児童文化車「くまごろう号」の轍

 「園児たちはよく笑った。顔中を口にして笑うと言っても過言ではない。……(略)……最も多いのは,後方へひっくり返って笑う子たちだ。」

 「床に座ったまま頭上に両手を挙げて神様を拝むようにして笑う子」,「前方へゴロンと床に音を立てて倒れて笑う子」,「いすの上で笑い,床に落ちて笑い,再びいすに座って『三段笑い』をする子」……。

 全国各地の幼稚園,保育園,小学校へ巡回して童話の口演活動を行った本村義雄(1930‐2015)の回想である(『ひろば北九州』238)。ベテランの園長先生が「子どもって,こんなに笑うもんですか?」と声をかけられるほどという。園児たちがよく笑う口演の具体的内容は,導入ゲーム,口演童話,手品遊び,大型紙芝居,指人形遊びの5種目から構成され,おおむね50分かけて行われる。

 とにかく驚くのはその回数と移動距離である。本村は1985年から巡回口演を開始,2003年には北海道から沖縄まで累計1,340市町村への巡回(日本5周目!)を達成し,6,400回もの口演を重ねた。そして2006年には7,300回を超える。こうした実績から,第28回久留島武彦児童文化賞(1988年),平成7年福岡県教育文化功労賞(1995年),第40回吉川栄治文化賞(2006年)など,数々の賞を受賞している。

 本村は,1949年福岡県八幡市(現・北九州市)立前田小学校教諭を経て,1951年9月に八幡市民生部児童課,北九州市福祉係長,さらには北九州市立かぐめよし少年自然の家初代所長,北九州市立児童文化科学館館長などを務め,55歳の1985年3月に勇退,そして1985年5月から「くまごろう号」という児童文化車で全国への巡回口演を開始した。
 「くまごろう号」という呼称について,当初,本村は「バンビ号」という名称を栗原一登(1911‐1994,演出家・児童劇作家,栗原小巻の父)へ提案したが,「君は日本人だろうが,アメリカのまねはやめろ。君のニックネームを並べてみろ」と指摘され,かつて小学生から名づけられた「くまごろう」を用いたという(『ひろば北九州』235)。

 この「くまごろう号」,巡回当初の1号車は,北九州市立児童文化科学館の移動児童館車(「こじか号」:中型バス)の払下げをキャンピングカーに改造したものであった。友人のK君を運転役に,大分,宮崎,鹿児島などを巡回する九州1周に続き,四国の巡回も行った。翌年からは,K君の体調の都合もあり,夫婦で(運転は,この間に運転免許を取得した夫人!)全国各地へ巡回するために,「くまごろう号」を中古の軽ワゴン車(2号車)に更新した。更新とはいえ,車内は極端に狭くなった。

 「床に洋服箱をぎっしり敷きつめ,衣類,小物を収納。その上にベニヤ板をのせて毛布をかぶせると後部座席は座敷に変身し,野菜かご二個つないでベニヤ板をのせるとベッドになる。」(『ひろば北九州』236)

 実は,「くまごろう号」の車内には自炊する調理用具や生活用具を積載,宿泊も「くまごろう号」車内であった。開閉する自動車の天井(サンルーフ)に傘を車内から突き出すと,空気抜きになり,雨が降っても大丈夫,という回想もある。駐車場や公園などの宿泊地で「マイホーム」へと変身するには20分くらいかかるというが,ここで遭遇する出来事や,出会う人々も大変興味深い。

 「午前零時ごろだった。私たちの安眠を破るように突然,『くまごろう号』の後方にパーッと強烈な照明が広がったので,あわてて飛び起きた。パトカーだった。」(『ひろば北九州』240)

 車内で寝泊まりをしていると,「必ずといっていいほどパトカーの職務質問を受けた」という。「役場泥棒と疑われた」,「真夜中,駐泊の隣の車に救急車が」やってきた,巡回する警官から「一時間おきに起こされ『大丈夫?』」と声をかけられ寝れない,などの回想がある。この他にも,駐車場の係員が「駐車料がただになる方法教えます」とアドバイス,中年の男性から「こんなところに泊まるの?うちの庭に泊まりなさいよ」と誘われる,駐車場の閉門・施錠時間の規則のため宿泊許可できないなど,数々の「駐泊寸話」が残されている。

 「知らない道を,キョロキョロして運転するので当然ですが,探し当てた幼稚園などで,公演の折衝をする時が,いちばん緊張します。「くまごろう号」は,予告なしの突然訪問巡回ですので,ご迷惑かけることしばしばです。」(『走れ!くまごろう』1988年)

 「くまごろう号」の巡回は,アポなしの訪問のため,断られるケースも多々あったという。商品セールスと誤解されること,突然の訪問であるため怒られること,玄関払いを受ける様子も本村によって数多く描かれている。

 「保育所の担当者を呼びますから…。今日は係員がいませんので明日出直してください。」(『くまごろう旅を行く』1994年)

 こうした役場の受付窓口での対応も非常に興味深い。役場職員が事務室で本村の名刺をみて「お前が行け」「俺は行かん」と手振りを交えてやりとりする様子,「上司が不在で私の一存では決めかねます」と幼稚園の紹介を断ったが,その上司とは教育長で当の本人は課長であったこと,Aさんから右隣りのBさんへ,右隣りのCさんへ,Dさんへ,Eさんへという役場職員8人のたらい回しの名刺リレー,「今日はあいにく保育所全体で大事な行事が催されている」と役場で聞いたが,途中の町立保育所に寄ったところ,「よく来てくれました。公演していただけますか?」と明るい声で依頼されたこと……などなど,とにかく本村の話に自然と引き込まれてしまう。

 もちろん,各地で出会った地域住民の人情も数多く描かれている。朝食・夕食時の差し入れ,入浴への便宜,地元の道路の案内,あいさつ,キャンパーなど旅人との出会いについても,まさに読者がその場に居合わせているような等身大の小文字である。

 口演できそうな幼稚園・保育園を探す緊張とともに,次の宿泊地を探す不安……,車内泊のため,日没までに照明やトイレ,水道のある安全な場所を探す焦り。しかし口演が決まると,子どもたちの笑顔と輝く目から疲れも苦しさも吹き飛んでしまうという。無料での口演を児童文化車という「くまごろう号」で全国を巡回する本村。本村の信念と情熱とはいったい何であろうか。

 「心の躍動と満足は,与えられるよりも,自力で創り出していく方が大きいからです。絵と絵の間は,自分の頭の中に想像の絵を描いて埋めていかねばならないのです。」(『走れ!くまごろう』1988年)

 本村の気力と体力を支えたのは,学生時代(小倉師範)での児童文化部の経験であった。日本のアンデルセン・童話の父といわれた久留島武彦との出会い,久留島の門下生・阿南哲郎に師事した本村は,日本中を巡って童話を語り,紙芝居を見せて,子どもたちを喜ばせたい……,これが学生時代の夢であった。元・北九州市長の谷伍平は本村を次のように回想する。

 本村さんは,阿南先生に負けないくらい,子どもが好きである。ただ子どもが好きというだけでなく,どうすれば子どもたちが強く明るく生きていく力をたくわえることができるかを常に考えて,その途を行政の中で模索してきた。(『走れ!くまごろう』1988年)

 周囲を巻き込みながら生の語りを地域に運んだ「くまごろう号」。確たる信念と情熱をも地域に運ぶ本村の生き方。そして,多様な文化を内面化して成長していく子どもたち。本村の活動を紐解くと,現代社会で失われていることの多さに改めて気がつく。

<謝辞>

 本稿はJSPS科研費17K04640の助成による研究の一部です。資料収集にあたり,北九州市立八幡図書館・館長の志賀哲雄様はじめ図書館員の皆様にはご支援をいただきました。ありがとうございました。

<参考資料>
  • 本村義雄「くまごろう旅ばなし<1~12>」『ひろば北九州』235~246,2006.1~2006.12.
  • 本村義雄『走れ!くまごろう:口演童話 日本三周の旅』あらき書店,1988.
  • 本村義雄『くまごろう旅を行く』西日本新聞社,1994.
  • 本村義雄『くまごろうおしどり旅便り』くまごろう応援会,2005.
  • 「福岡の人 本村義雄」『グラフふくおか』538,2005.12,p.9.
  • 「子どもと文化」『現代教育史事典』東京書籍,2001,p.343-350.
    • (2018年6月)

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