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連載エッセイ ROCK司書のセンチメンタル・ライブラリー 若園義彦

第38回 <嫌いな本>

 できることならば好きなものに囲まれて暮らしたい。程度の差こそあれ、そう願う人は多いのではないかと思う。心豊かに、あるいは心穏やかに、ときには心躍るように。大好きなものだけに囲まれて暮らしたい、と。

 しかし。しかししかし。図書館で働こうとすれば、その願いを叶えることは難しい。「どんな本でも大好きなんです」という殊勝な図書館員もいるかもしれないが、好きな本があり、嫌いな本がある、というのが普通の人間だろう。
 「うちの図書館は私の好きな本ばかりです」という司書がいたり、そういう図書館があったりということは考えられる。また、「この図書館にある本はすべて大嫌い」なんてことも可能性として、ないとは言えない。ただ、そんな図書館を想像してみると何だか苦しい。長くはいられないのではないか、と思ってしまう。

 図書館に並んでいる本は個人の「好き嫌い」を超えているから過剰な反応を引き起こしにくい、というところがあるのではないか(ときどきは引き起こしたりもするけれど)。

挿絵

 ある本を図書館に入れるべきかどうかを考えるとき、その本への「好き嫌い」はいったん置いておく。(司書個人が)好きだから入れる、嫌いだから入れない、とやっていたら、かなり奇妙な図書館ができあがるだろう。
 個人の本棚ならばそういうことはできる、というかたいてい好きな本が並ぶのが個人の本棚。書店がそんなふうに経営することもできなくはない。しかし図書館はそうではない。そこが図書館の面白いところだと思う。

 司書が本を選ぶときには「好き嫌い」要素を除外して考える。けれどもそれは「好き嫌いがない」ということではない。その「好き嫌い」をないものとして行動するのではなく、むしろ存在することを認め、その上でそれを除外して本を選ぶ。そのほうが客観的な選書ができるのではないだろうか。客観性というのは司書にとって重要な資質だ。

 さて、「好き嫌い」の存在を認めるのはいいとして、それを公言するのはなかなか難しい。「好き嫌いで本を選んでるんじゃないの?」と誤解を招く可能性を考えてしまうからだ。「痛くもない腹を探られる」のは嬉しいものではない。
 まあ「好き」方面はなんとなく許容されそうな雰囲気を感じるが「嫌い」方面はけっこうなハードルの高さだ。自分の好きなものを「嫌い」と言われれば何となくひっかかる。それが司書の言葉だったら「その腹が痛いのか痛くないのか」探ってみたいという気持ちになることも理解できる。なので自然と「嫌い」方面への発言は抑制がかかることになる。

挿絵

 なお、ここで言う「嫌い」というのは「本の主義主張が受け入れがたい」とか「表現が稚拙に過ぎる」とか「難解で意味がわからない」とかではない。「なんとなく腹立たしい」「嫌な感じがする」「読んでいるとイライラする」などだ。内容への正当な批判ならともかく「好き嫌い」レベルの話である。問題があるのはその本ではなく、こちらの方かもしれない。遠慮なく公言できる、という感じはしない。
 ただ「嫌いな本」への言及を過度に避けるというのは、それはそれで何だか不自然なことのようでもある。客観性の確保に悪影響を与えそうだし、抑えこみ続けると、どこかで爆発しそうな気もする。

 そこでどうするか。信頼できる友人とその本について話す、というのはひとつの手だ。友人といえども本の「好き嫌い」が似ているとは限らない。デリケートな話題である。相手を傷つけたり、こちらの本への認識を疑われたり、というリスクもある。そこで、恐る恐る探りを入れたりする。「なんかこの本、すごく売れてるみたいだよねえ…」とか。そして「嫌いな本」が一致するとちょっとほっとする。ついには悪口で盛り上がる!

 「好きな本」を共有するのとはまた違った、言ってみれば「昏い楽しみ」かもしれない。本にはそんな楽しみ方もある。しかしこれは、司書としての客観性を保持するための重要な作業なのです(冗談ですよ、もちろん)。

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