わらべうた『お寺の和尚さん』で、和尚さんはかぼちゃ(地域によって柿というものもあり?)の種を蒔く。その種から芽が出て膨らんで花が咲いたところで「じゃんけんぽん」なのだけど、せっかくかぼちゃ(や柿)なのだから、実がなるまで待ってからじゃんけんすればよさそうなものなのに、と思う。しかしそれも一方的な考えか。和尚さんはかぼちゃ(や柿)の花が好きで種を蒔いたのかもしれない。植物の愛で方は人それぞれでいい。
本というものは種(たね)のようだ、と思う。
種は、そのままでは何の種かわからない。わかる人にはわかるし、売っている場合は表示されているが、本当のところは育ってみないとわからない(という気分にさせるのが種の面白いところ)。
本も読んでみなければそれが何だかわからない。何だかわからない本を読むのは、心に何だかわからない種を蒔くような行為と言えるかもしれない。種を蒔き、水をやっていると芽が出てくる。生命の時間の中でもっとも輝かしい瞬間のひとつだ。読書での「芽が出る」というのは「心が動きはじめる」というあたりだろうか。
肥沃な土地に種を蒔き、適度に水をやり、温度や空気や日光などの条件を整えたとしても、必ず発芽するとは限らない。本の種も同様で、芽が出るときがあればそうでないときもある。種を取り扱う立場からすれば、芽は出たほうがいい。せっかく種を蒔いて世話をして、芽が出ないのは虚しく、寂しい。できることならすべての種が発芽しますように、と思う。
けれども同時に「発芽率がすべてではない」とも思う。なかなか芽が出ない種類の種でも、難関をくぐり抜けて成長し、美しい花を咲かせたり、美味しい果実を実らせたり、見事な大木になったり、そんなことが起こりうる。
土の中で何年も眠った後、唐突に目覚める種もある。何かのきっかけで芽を出し、種を蒔いておいた過去の自分に感謝したくなる。本の種の世界では珍しいことではない。
また永遠に芽を出さない種にも、何か意味があるのかもしれない。とにかく心の土地にはたくさん種を蒔いておきたい。
芽が出て膨らんで花が咲いて実がなって種がとれる。その種からまた芽が出て膨らんで…。そう思うと、ある本の種は、何もないところから突然生まれたのではなく、他の本の種が成長した結果、できたものなのかもしれない。
北原白秋はこんなふうに書いている。
薔薇ノ木ニ
薔薇ノ花サク。
ナニゴトノ不思議ナケレド。
(『薔薇二曲』より)
薔薇の木に薔薇の花が咲く。当たり前みたいだけれどそこがいい。そして薔薇の木に薔薇の種ができる。その種が成長して薔薇の木になってそこに薔薇の花が咲く。それは確かに薔薇の花なのだけれど、元の薔薇とは違う、また別の薔薇の花なのだ。
白秋の詩はこんなふうに続く。
薔薇ノ花。
ナニゴトノ不思議ナケレド。照リ極マレバ木ヨリコボルル。
光リコボルル。
花はいつか落ち、種ができる。芽が出るかどうか、蒔いてみよう。
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