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連載エッセイ ROCK司書のセンチメンタル・ライブラリー 若園義彦

第23回 <取り替え子チェンジリング(3)>

 T市なら行ってみたい。そう思ったのは先生がT市の図書館を薦めていたからだ。「なかなか面白いことをやっているから、機会があったら一度行ってみるといいよ」と。A半島は温暖な土地、ということなので、この季節でも過ごしやすいかもしれない。海が近いから美味しい魚が食べられるかも。
 取り違えの相手に連絡がついた。恐る恐るの「伺いたい」というメールにこの返信。
「T市の○○マタニティクリニックに着いたら連絡ください」
マタニティクリニック?え、産婦人科の先生?看護師さん?まさか妊婦さん?考えてみたら相手の性別さえわかっていない。フルネームすら聞いてない。本を取り替えるだけだから、どんな人であっても構わないわけだが、出産間近ということだとしたら申し訳なかったかな。そんなことを考えながらT市に向かった。

挿絵

 3時間ほどしてマタニティクリニックに到着する。駐車場で到着を知らせるメールをすると「院内のカフェにいます」と返事。少し緊張してきた。どんな人だろう。クルマのドアを開くと強風でもっていかれそうになって、トートバッグをしっかり握り直した。
 陽だまりのようなカフェには他にお客さんはいなくて、すぐにその人とわかった。隣の椅子にトートも置いてあるし、ぼくが借りた(はずの)『きょうというひ』を胸に抱えていたのだった。声をかけようとして、その人が眠っているのに気がつき、ぼくは黙って向かいの席に座った。
 注文したコーヒーを持ってきた店員さんが「ごゆっくりどうぞ」と小さな声で言った。眠っているその人を気遣ったのだろう。いよいよ声をかけにくくなる。コーヒーを飲んで、少し待つことにする。
 本を読もうと思ったけど、今自分がもっているその人が借りた本を読むのと、その人がもっているぼくが借りた本を読むのと、どちらがよいのか、というか失礼にあたらないか、と考える。微妙だけれど、その人の隣の椅子にあるトートに(自分のものとはいえ)手を出すのがためらわれて、結局『読む時間』を(その人のトートから)取り出す。パラパラとページをめくりながら、向かい側に座っている人の様子を見る。本を抱えたまま眠る姿は『読む時間』の1作品のように思えた。人が本と触れあっている場面は、ぼくの気持ちを楽しくする。
 するとその人が目を開いた。
 「私、おばさんになったの」
 何の前置きもなく言葉が出てきた。一瞬、ジェーン・スー?(『私がオバさんになったよ』幻冬舎 2019)と思ったけど、そうではない。「叔母さん(または伯母さん)になった」のだ。兄弟姉妹に子どもが産まれた、ということなのだ。少し疲労の浮いた、それでいて幸せそうな笑顔がそれを裏付けているような気がした。
 その人は抱えていた本をトートに入れて、黙って差し出した。ぼくも同じようにして本とトートを返した。これで取り替え子は元に戻った。妖精の時間は終わったのだ。
 「図書館で会いましょう」と、目を閉じたままその人は言った。
 「はい。図書館で」ぼくは返した。本を取り違えたおわびも、勝手に読んでしまった本の感想も、甥(または姪)が産まれた喜びの言葉も祝福の言葉も、3時間クルマを走らせてきてしまったことに関する軽口もねぎらいも、何もなかった。トートを入手した旅の思い出も、書こうとしているレポートのことも、風の強さについての話も、おすすめの魚料理のお店も、何もなし。でもそれでいい。きっとまた、図書館で会える。
 さて、ではT市の図書館だ。ぼくは立ち上がった。

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