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連載エッセイ ROCK司書のセンチメンタル・ライブラリー 若園義彦

第3回 <千年図書館>

 今日も雨だ。時おり窓に目をやって降り続いているのを確認し、雨が木々の緑や家々の屋根を濡らすのを眺めながら本を読むのは悪くない。悪くないんだが、それがあんまり長くなると「いつ止むのだろうか、この雨は」という気分にはなる。

挿絵

 そんなときに読んでいた、若竹千佐子『おらおらでひとりいぐも』(河出書房新社 2017年)に、千年降り続いた雨についての記述があった。「四十五億年前、地球ができてまもなくのころ」のことだという。

 千年の雨。晴耕雨読という言葉があるが、千年も降り続いたら雨雨読読(?)、毎日読み放題だ。書店も図書館も本を求める人で大入満員、出版社は大忙し…。

 千年という時間の単位はなかなか味わいがあるものだ。生身の人間が体感できる時間はやはり百年というところだろうか。四十五億年は言うに及ばないが、一万年だってもう想像しにくい単位だ。千年は体感はできないが、なんとなく想像はできる。我々が千年前のことを(少しは)知っているからだ。紫式部から若竹千佐子までがだいたい千年。そんな「物差し」があるから、↑THE HIGH-LOWS↓の『千年メダル』も中上健次の『千年の愉楽』(河出書房新社 1982年)も楽しめる。千年先を(ほんの少しは)想像することもできる。

  百年先を見据えた図書館、というのはときどき耳にするし、そんなふうに考え、事業に取り組む図書館員は少なくないだろう。しかし千年となるとどうか。テクノロジーの進化や社会の変化など、予測が困難なファクターもあり、なかなか具体的な像を結びにくいというのが正直なところだ。

 『百年の孤独』(新潮社 2006年)で百年という時間に魔術をかけて見せたガルシア=マルケスは「新しい千年に向けての言葉」という講演で次の千年を予測し、聴衆に行動を促している(『ぼくはスピーチをするために来たのではありません』新潮社 2014年)。

 ガルシア=マルケスも中上健次も「場所」を強く意識させる作家だった。拠って立つ「場所」を持つことが千年の時を行き来するためのポイントなのかもしれない。だとしたら「地域」という特定の「場所」に深くコミットする図書館員も、彼らのように予測したり想像したり、ときには創造したりできるに違いない。

 そう言えば『百年の孤独』に「四年十一カ月と二日」降り続いた雨の描写がある。四年十一カ月と二日も降り続いたら雨雨読読(!)、毎日読み放題だ。書店も図書館も本を求める人で大入満員、出版社は大忙し…。

 そんな冗談を言っていたらいつの間にか雨が止んでいる。さあ、図書館に出かけよう(降り続いてても行くんだけどね…)。

挿絵
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